私は周りから「ちゃんとした人」だと言われることが多い。
私としては、あまりそのように思わないのだけれども、それを理由にして女性から振られたことがあるくらいだから、おそらくそういう傾向は強いのだろう。
「ちゃんとした人」
○やるべき事をやるべき時にやることができる。
○感情に流されずに淡々とタスクをこなすことができる。
○成果に向けての工程を逆算して、順を追って段取りをすることができる。
まるで機械のようだ。
私からすれば、理想的に思えるけれど、それを窮屈に感じる人も多いのだろう。
特に女性は、感情の赴くままに行動したいタイプが多い。
自分がそういう性質であるならば、自然と周りにもそれを要求することになるのかもしれない。
だから、女性から見た私は重荷となる。
「ますをくんが「ちゃんとした人」すぎて、私にはますをくんを支える自信がない」
手を繋いで帰ったきり、二度と会うことのなかった女性からは、別れ際に電話でそう伝えられた。
そして、今付き合っている彼女とも、そのことが原因で衝突が起こった。
もちろん、「ちゃんとしたタイプ」の女性も中にはいるのだろうけれど、私が惹かれるタイプの女性は、決まって天真爛漫な自由人なのだ。
だから、私と女性たちとの間では、いつもこのことで確執が生じるのだろう。
「理屈が通用しない」
直感的にこっちの方がいいと思うから、こっちを選択する。
とってつけたような説明はできたとしても、そこに言語化できる理由など存在しないのだ。
確かに「理屈では示すことのできない正解」は存在する。
直感に従って進んだ先に結果オーライということは、私もこれまで数多く経験してきた。
だけれども、それはあくまでもただのラッキーであって、掴み取った正解ではないのだ。
「こうなる運命だった」だなんて思考停止したまま終えることは私にはできない。
課題や反省点を分析して次に活かす。
もはや、職業病なのかもしれないけれど、基本的な私のスタンスは、おおよそ全ての事象から学ぶことはあり、それを次の機会に活かしたいと考えている。
その繰り返しで精度の高い選択をすることが可能となるのだ。
だから、「なんとなく」で大事な事を選択されて、結果を「運命」だと言われてしまったら、とても調子が狂う。
うまくいかなかったことについては、彼女もそこから学ぶスタンスだけれども、うまくいったことは、それがたまたまだったとしても、「運命だった」と手放しで喜び、思考停止する。
それは学びの機会を失うことになりやしないだろうか。
そんなことばかりを考えているから、私は「めんどくさい」のだ。
知的な印象だった彼女が露わにする、子供じみた主張に疲れながらも、おそらく彼女も私のめんどくささに疲れているのだろう。
私たちは、お互いの良いところばかりを見てきた。
だけれども、人間だもの、良いところばかりなはずがない。
私たちは、これから先、長い時間を過ごすことになるはずだ。
たくさんのことを擦り合わせながら、先に進み続けるしかないのだろう。