先日、仙台で女子学生を切り付けた男が、表記のように供述していたという。
もちろん、身勝手この上なく、受け入れることのできない理由ではあるが、
先日会って話をした友人のことを考えると、あながち理解できない動機ではないと感じた。
人に危害を加えることは許し難い。
被害者が受けた恐怖により、その人生は大きく後退してしまう恐れすらある。
自己都合で誰かの人生を奪うことはあってはならないことだ。
その前提で、私の友人の話をする。
地元で久々にバッタリと会って、道端で少し話をしただけなのだけれども、話を聞くとコロナ禍で勤めていた店舗が無くなり職を失ったと言う。
落ち着いた仕事につくことができず、日給の仕事で働いているらしい。
生活費はままならず、エアコンは故障したとのことで、この夏は死ぬほどきついという。
日中、家にいたら死にそうだから、図書館やマックに長時間入り浸り、夜は扇風機で凌いでいるだけだからまともに寝ることもできないという。
電気の力がなければ、落ち着いて家にいることも寝ることもできない異常な気温。
実家を頼ることもできず、「このまま死んでも構わない」などと友人は口にする。
「本当にヤバかったら連絡しろよ」と伝えるも、どこか心ここに在らずといった様子だった。
そういう中で生きていると考えると、
少なくとも衣食住には困らない刑務所での生活の方がマシだと考える人が増えてもおかしくはない。
日本ではあまり実感する機会は少なかったかもしれないが、
治安の悪化は、国民生活の悪化がトリガーとなることは少なくないだろう。
外国の古典文学なんかを読んでいると、生活のために罪を犯すという描写は実に多い。
そうした中で、現代日本では福祉の充実を逆手に取り、「刑務所の方がマシ」と考える犯罪者が増えるとはなんとも皮肉なものだ。
少し前に、刑務所での懲役刑を廃止して更生プログラムを充実させるという話があった。
確かに人権は大事だけれども、その更生プログラムが刑罰になるのか。
はたまた受刑者にとっても生きがいにつながるのか。
詳しい話は知らないが、表面だけを聞く限りはあまり効果的な方向に進む気がしない。
人は「強くて儚い生きもの」だね。
そして「弱くて強かな生きもの」でもある。
自らの生活のために、他人を傷つけることができてしまうのだ。
生きていくことが困難な状況に追いやられたならば、
それを打開するために、なんでもできてしまうのだろうか。
「無敵の人」
失うものなど何もない。
そうなってしまったら、人は何をしでかすかわからない。
マズローの5段階欲求の下の方が満たされないと、人は人ではいられなくなってしまうのだろうか。
欲望に対して、人はなんとも無力である。
その目があまりにも虚で、生きる気力を失っている様子だったから、
私は友人に対して、励ましの言葉を送ることもできなかった。
「ヤバかったら連絡しろよ」
それが私の精一杯だった。
職を失いそうなタイミングで、先を予測して動かなかった彼の自己責任と言えばそうなのかもしれないけれど、
彼に先へと進む意思がないのであれば、そこはどうすることもできない。
気力をなくして、短絡的な思考に陥って、犯罪に手を染めてしまう。
そういう危険性は、顕在化していないだけで、そこかしこに転がっているのかもしれない。
我々はどこに進んでいるのだろうか。
インフラが整備されて、福祉が充実するほどに、心と体は脆くなっていくのだろうか。
個人で全て完結可能になればなるほどに、
人は「記号」へと変わっていく。
当たり前のように助けを求めて求められて、
そういう人同士の繋がりは希薄になっていく。
人との繋がりは対価を支払って得ることのできるサービスへと変わっていくのだ。
そうなると、損得勘定で人のことを見るようになる。
だから、自分が得をするため、あるいは損をしないためには他人を傷つけることもやむを得ない。
そんな思考に陥るのではないだろうか。
病理はそこにあると感じる。
人との繋がりに怯えることなく、潤いや温もりを与え合いながら、気軽に助けを求められるような社会になればいいのだけれども。
社会はどんどん逆の方向へと進んでいく。
責任を押し付けるために対価を払い、人とのつながりを避けるために対価を払う。
金銭的に豊かになればなるほどに、お金を使った人は面倒を避けるようになる。
今の社会でのお金の使い方は、果たして正しいものなのだろうか。
私には判断がつかない。