表題のことについて論じようと思う。
Twitterで少し話題になっている。
「男性の性欲がなくなったら、女性に優しくする事はなくなる」という話。
弱者男性代表のようなブログを長年書いてきた私だ。
この手の話題には首を突っ込まざるを得ない。
結論から申し上げると、
「男性全体が女性全体に向ける優しさの総量は、間違いなく減るだろう。しかし、優しさの動機は単純に性差で推し量ることはできない。」
月並みで面白みのない落とし所だが、私はそう考える。
私個人のことにフォーカスすると、私は「誠実さ」という足枷を自らにかけることで、何度もチャンスを逃して、童貞を貫いてきた男だ。
そんな、この件の影響度が著しく低いと思われるサンプル一つとっても、少なからず「性欲と女性に対する優しさ」の相関関係はあると感じる。
しかしながら、相手が女性だから優しくするのかと問われると、そうではなく、単純に私にはできて、目の前の人にはできないことがあるから、その人を手伝うことで優しさを示す結果となる。
そういう場面の方が多いのではないか。
身体的な面で、男にできて女性にできないことは多いから、単純に助ける場面が多いだけで、小柄な男が目の前で困っていたら、捨て置くことはしないだろう。
人間は、そこまで非常な生き物ではない。
つまり、性欲は相手に優しさを見せるための後押しの1つにはなるが、性欲が動機の全てとなり優しくするわけではない。
そういうことだ。
しかし反面で、
男の性欲は厄介なもので、草食の権化みたいな私でも、もてあますことは少なくない。
ふと魔が差して、おかしな方向に向かってしまう気持ちは、男ならば誰もが、少なからず理解はできなくとも、全く他人事とは思えないはずだ。
だから、それを肯定的に発揮できる場面に出くわせば、そりゃ女性に対して優しくもする。
何も性的な行為に繋がることを期待しなくても、自分が異性から感謝されるということだけで、性的欲求を満たすことはできるのだ。
男も女も、自分の性的魅力に自信がない場合がほとんどだ。
いつも不安を抱えながら生きている。
男らしさ、女らしさ、
そんな社会的物差しに自分を当てはめて、そこからずれていないかどうか、なんども確認しながら生きている。
だから、男が女性に対して優しくする事で、「自分の行いは男として正しい」のだと思うことができれば、それだけで少し自信が持てる。
「綺麗でいなければならない」
女性の持つそんな強迫観念。
それと同じように男は「女性に対して優しくしなければならない」
そんな強迫観念が、少なからずあるだろう。
性欲だけでは推し量れないもの。
いや、ここまで含めて性欲の範疇なのかは私には判断できないけれども、私が書きたかったことは、「性欲と性行為への期待は、必ずしも一致しない」ということだろうか。
「男の性欲イコール性行為への期待」
そんな論調に違和感を覚える。
男も女も、自認する性らしくいられることを求めている。
それも性欲ではないだろうか。
男チームと女チームに分かれた対立の構図。
そういうのは、そろそろやめた方が良いのではないか。
それに拘っているうちは、ジェンダーレスを掲げながらも誰よりもジェンダーに拘っている、そんな残念な人から抜け出すことはできない。
女性には女性の辛さがあり、男には男の辛さがある。
それをお互いに理解はできなくても、ある程度は妥協しながら、共生の道を探ればいい。
男の性欲はなくならない。
表に出さないだけで、女性にも性欲はある。
そして、好みの異性から好かれるために優しさを見せることもあるはずだ。
男女差は性行為に対するリスクだけ。
男も女も同じ人間なのだ。