すでに削除されているが、
とても興味深い記事があった。
筆者は「強姦できる」ということは、特殊能力であると主張する。
幼少期のトラウマから、強姦に対する嫌悪感が強く、強姦ジャンルのアダルトビデオを見る男に対する嫌悪感にまで話は及ぶ。
そして、最後はそれを好んで見ることが理解できないというところに到達したところで、違和感を覚えた。
これを踏まえて、私なりに所感を述べる。
私は、性的弱者であり、加害者性としての男性性に思い悩むという記事を書いていた時期があるほど、筆者に近い思想の持ち主であることを前提として書く。
しかしながら、ぶっちゃけると、強姦ジャンルのアダルトビデオ(配信されているサンプルくらいのものだが)を見ることがある。
それが、タイトルからそういうジャンルのものだとわかっていて見る。
そして、そういうシーンに興奮することはあるのだ。
ということは、私には、筆者の主張する「強姦できる特殊能力」があるのか、
そう問われると、おそらくNOだ。
実際に記事にあるように、手を出しても絶対にバレないシチュエーションで、性的魅力が私の好みど真ん中の女性と二人きりになったとしても、私は相手にその気が無ければ、無理やり手を出すような事は、おそらくできないだろう。
(相手にその気があれば手を出すのか、という議論は置いておく)
そういうシチュエーションになったことがないから、あくまでも「おそらく」だが、感覚的に自分はそういう事はできないタイプなのだろうなという事はわかる。
何度か書いているが、私は元カノと2晩を共にしたが、手を出せなかった男だ。
おそらく相手にもその気があったにも関わらずだ。
何が書きたかったのかというと、そういう私のような男であっても、強姦モノのアダルトビデオを見るし、表には出さなかったとしても、そういうシーンに興奮する。
その源泉は、「支配欲」という見方もあるだろう。
「非日常に対する好奇心」という見方もあるだろう。
自分で自分のことを考察してみても、なぜ自分がその手のアダルトビデオを見るのか、明確な理由は説明できない。
敢えて理由をつけるのであれば、男としての自尊心が低い場合は、犯される女性の姿を見て、相対的に女性の価値を下げることで、自分が価値あるものだと思いたがる、というものがあるのかもしれない。
逆に、自虐的となり、とことん自分の価値を下げることで、女性からモノとして利用されることで自らの存在価値を探る方向に進むと、SMにハマるのかもしれない。
「興奮」とは、好奇心が満たされた状態と捉えるならば、普段は絶対に見ることのできない自分とは真逆のシチュエーションに対して「興奮する」という見方もあるのかもしれない。
ともあれ、人の性癖なんてものは、人の数だけあるのだろうから、一口にジャンル分けできるものではない。
性癖が歪んでいるからといって、性格が歪んでいるかというと、そうも言い切れないのが人間である。
「殺人衝動に思い悩む殺人鬼」のような社会とは相容れない存在ではない限り、それを表に出して周りに迷惑をかけないのであれば、ある程度許容しても問題ないのではないかと感じた。
最後に、筆者の「男性諸君の意見を聞きたい」という問いかけに対する回答としては、おそらく「強姦ジャンル」のアダルトビデオを好んで見るかどうかはともかくとして、そのシーンに興奮するという男性は多数派ではないだろうか。
筆者は、そういうシチュエーションでは絶対に勃たないと書いていたが、それは少数派である事は間違いない。
私の感覚では、例え画面の中の女性が可哀想だったとしても、体は反応してしまう。
しかし、実際にそのシチュエーションになったとしても、自分には無理やりすることはできないだろうと思う。
その点からすれば「強姦できる」というのは、特殊能力なのかもしれない。
女性に限らず、人を道具としてみてしまうことを嫌悪し、それを自らの弱さだと考えている私でも、そればかりはどうしようもないのだ。
「理性で欲情を抑えている」
平たく言えば、ヘテロ男性の多数派は、女性に対する性的興奮に対して、上記のようなスタンスをとっているのかもしれない。そうして男は性欲を隠しているつもりになっているのかもしれない。
女性からすれば、それを隠しきれていない姿に嫌悪感を感じるのかもしれないが、その辺りは、お互い様だったりもする。
性欲に対する男女間の差は、「性行為に対するリスクの大きさ」のみで、その度合いに大差などないのだ。
それは、童貞から夫婦となった今、私が実感することでもある。
「神秘のヴェール」に隠されていた女性の本質を垣間見た私には、もはや、女性を「清らかなもの」として考える気持ちは、さほど残っていない。
男も女も、いろんな性癖があり、それと折り合いをつけながら生きているのだ。
迷惑をかけられない限りは、他人の好みに嫌悪感をおぼえても、見て見ぬ振りをしてやり過ごすのが得策ではないだろうか。
理解できないものはできない。
とりわけ、個人の中で一人歩きしがちな「性」というジャンルについては、そういう傾向が強いのかもしれない。