「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

望んでも「異性」を獲得できないことが精神に及ぼす効果

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30年以上も「童貞チーム」に所属している私だ。

女性と結ばれないことに関してはちょっとした権威だ。

チーム内ではおそらく年長の部類に入っている。

 

「異性」を獲得できない。

なかなか辛いものがある。

 

一言で言えば「欠落感」

そういうものに苛まれるのだろう。

そしてその「欠落感」を別の何かで埋めようとする。


その過程で下手をすると「異性」を蔑み、

自分の中で「異性」の価値を下げることで、

相対的に自分の価値を上げようとする。

なんとも浅ましい。


そして「嫉妬心」

幸せそうに並ぶカップルに対して憎悪が湧く。

とことん始末に負えないものだ。


「欠落感」


欠けた部分にばかり目を向けて、

満たされている部分には見向きもしない。


自認した「性」に所属しているという「所属意識」

ほとんどの人は生まれた時からその「性」に所属しているのだ。


多くの場合、

人は費やした時間に比例して、

その対象に愛着を持つ、


だから「男チーム」だとか「女チーム」


その所属する「チーム」と「自分」を切り離すことは困難だし、

その「チーム」における地位向上が、

自分自身の「生きやすさ」に直結すると本能的に理解している。


そして条件の良い「異性」を獲得するということは、

「チーム」での地位向上につながるのだ。


だからこその「欠落感」


「異性」を獲得できないことによる「欠落感」

それは本能的なもの、

なかなか拭うことはできない。


その「欠落感」を抱えたままで、

自分の人生を肯定できるのならばそれでいい。


だけれども私は、

まだそのステージには到底達していない。


強い「欠落感」を感じながらも、

どこかで「まだ大丈夫」と、

自分の将来に希望を持っている。


幸い気にかけてくれる人は多い。

加えてやり取りを続けている女性もいる。


時折感じる言いようのない「寂しさ」


ZARD『My Baby Grand ~ぬくもりが欲しくて~』

「ぬくもりが欲しくて人混み歩いた。

ブルーな時はそばにいて」


人混みの嫌いな私だから、

あまり共感できない歌詞だったけれど、

あまりにも温もりから遠ざかってしまうと、

「とにかく人の近くにいたい」って、

そういう気持ちが理解できるようになった。


コロナ禍が「欠落感」を助長しているのかな。


女性とやり取りをしていても、

なかなか会うことができない。


お互いが「どうでもいいこと」を送りあって、

そこに煩わしさを感じながらも、

会えるようになるまでの「繋ぎ」にしているのだ。


そこまでして私は、

このやり取りをしている彼女と会いたいのかな。


「会いたい」とは思うけれど、

その気持ちの出所は誠実なものなのか。

そう考えるとわからなくなる。


私は私の「欠落感」を埋めたいがために、

「異性」を求めているのかもしれない。


自然と好きになって、

自然と一緒にいたいと思えて、

お互いが同じ気持ちだから一緒になる。


そういう「プラトニック」な恋愛は、

おそらくもう経験できないのだろう。


利害関係によって浮かんでは消えていった女性たち、

彼女たちにとっての私は「不安を解消するための道具」だったのだ。


こじらせすぎるあまり、

どんどん「女性」に対する見方が歪んでいく。


そうしていないと、

「男」としての自尊心を保つことができない。


いっそ「男チーム」から離脱すればいいのだろうか。


今日から私はジェンダーフリー

そう言い聞かせたところで、

どうしても私は「女性」を求めてしまうのだ。


男の性欲というものは、

何とも厄介なものだ。


だけれどもそれがあるから、

私は「男チーム」でいられるのかもしれない。


ありがたいことだ。


「居場所」を失うことはきっと、

「死ぬ」よりも辛いことだから、

 

「所属しすぎること」で身動きが取れなくなる

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HSP」やら「発達障害」やら、

愛着障害」やら「男尊女卑依存症」


新しいグループが蔓延っている。


この手のものは次から次へと湧いてくるから、

ある種の流行り、


そう言えるのかもしれない。


人は「病気」に名前を付けたがる。

自分の症状が分からないと不安だからだ。


「あっ、自分はこれだ」ってやつ、

そこにカタルシスを求める。


自分はこのグループに所属していて、

こういう治療をすればよくなる。


そういう安心が欲しいのだ。


加えて名前がついていれば、

周りからの理解を得やすい。


「私は○○なんです」って伝えられるだけで、

自分に「居場所」があるように思えるのだ。


ニートは「ニート」と言う言葉が存在していて、

自分の状況を社会的に認知されていることに安心する。

だから安心してニートでいられる。

そういう話を聞いたことがある。


一言「ニート」だと伝えさえすれば、

あとは察してもらえるのだ。

 

私の「童貞」も同じことなのかもしれない。


物心つく辺りで、

人は「アイデンティティ確立」のために、

他人とは違うものを追い求める。


何でも自分でやりたがる。

何でも知りたがる。


「自分」という名前のフィルターを形作るために、

色んなものをそのフィルターに通してみる。


そうやって「好き嫌い」や「善悪」

そういう基準が生まれるのだ。


それがひと段落すると、

自分を色んなコミュニティと紐づけたがる。


コミュニティでのふれあいの中で、

自分の作り上げたフィルターの精度を試すのだ。


その中で求められる「役割」や「立場」

相手との関係性を模索する中で、

パズルのピースの用にハマっていく。

そうやって「居場所」を作っていく。


だけれども、

どう頑張ったってどこにもハマらない、

「自分」と言うピースの形、


どこをどうすればハマるのだろうって、

試行錯誤を繰り返すうちにようやくたどり着く、

「人とは違う」と言うことを売りにしたコミュニティ、


どこかに感じていた違和感、

それを解消してくれるカタルシス


「生きる意味」を示してくれたという感動に魅せられて、

やがて、その虜になる。


人は誰かに理解してもらわないと、

自分がこの世に存在していていいのかわからないから、

だから自分を世界につなぎ留めておくために、

色んな糸を体に巻き付けていく。


そのうちに自分に何を巻き付けたのかもわからなくなって、

身動きが取れなくなっていく。


「理解されなくていい」だなんて強がっていても、

その強がりの回数だけ強く「理解されること」を求めている。

 

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突き詰めてみたらさ。

「自分」は「自分」

それ以外の何物でもないんじゃないのかな。


色んな肩書を身につけて、

「理解されたい」とアピールしたところで、

肩書が多すぎたら何者なのかわからない。


「理解されたい」と強く願いすぎて、

「理解されない」方向へと進んでいく。

なんとも虚しいものだ。


私は私に「30代童貞こじらせ男」というラベルを付けた。

そしてそのラベルに紐付けて毎日頭の中を書き連ねている。


だけれども、

リアルな私は微塵もそういう姿で生きてはいない。


だからわからなくなる。


私は何を求めていて、どうなりたいのか。

わからなくなるのだ。


おそらく私が私につけたラベルは、

もともと自虐の意味が強かったのだろう。


「こんなにも満たされない私」

 

そういうものを演出するためのラベルだ。

だから私は「かわいそうな私」を綴ってきた。


ある種、自分で自分を「かわいそうで満たされない」と、

思い込ませていたのかもしれない。


それにより憎しみは強くなった。

どんどん深くなった。

 

村上春樹ノルウェイの森

「自分で自分に同情するなんて下劣な奴のすることだ」

 

きっとその通りなのだろう。

その言葉に辿りついても、

その言葉を実践することは何百倍も難しい。

 

人の承認欲求というものは、

なんとも厄介なものだ。

 

手に入れたいと願うほどに、

手元からするりと落ちていく。

 

信頼を得るためには莫大な労力が必要なのに、

それを失うことは容易い。

さらに一度失ってしまうと再び取り戻すことは困難だ。

 

結局は「自分の価値」は、

どこまで行っても自分で決めてやるしかないのだ。

 

いくら言葉を形作っても、

それを実践することは難しい。

 

誠実と不誠実の狭間で揺れる。

 

他人に対する誠実さと、

自分の人生に対する誠実さ、

 

それが相反する場合に、

私はどのように、

どの類の欲求を満たすべく行動すれば良いのだろう。

 

人の欲というものは、

なんとも厄介なものだ。

 

ヨルシカの『創作』が名盤だと思う

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前作の『盗作』でも記事を書いた。

 

tureture30.hatenadiary.jp

 
私が去年一番ハマったのがこのヨルシカ、

今年も熱は冷めなさそうだ。


『盗作』はフルアルバムだったが、

この『創作』は5曲しかないミニアルバム、


CMで起用されている「春泥棒」はもちろん、

私は「風を食む」という曲が好きだ。


何度ループして流していても飽きが来ない。

 

これまでのヨルシカの楽曲はグサりと心に刺さるものが多かった。

人間の弱さや狡猾さをこれでもかというくらいに、

オブラートに包むことなく表してきた。

だから「聞くこと」に覚悟が必要だった。


だけれども今回の『創作』は、

何とも心地よいポカポカさが伝わってくる。

 

「春」を意識して作られた作品とのこと、

寝る前に流してもいいくらいだ。


それでいて柔らかなメロディとは裏腹に、

独特の「示唆的な言葉選び」は散りばめられている。


「ヨルシカ」のイメージ、


「知的で挑戦的」

 

私の中でこれまでのヨルシカは、

そういう尖ったイメージだった。


だけれども、

この作品はとても文学的で情緒的、

とことん「文系」だ。


『創作』

 

5曲と少ない構成だけれども、

ヨルシカの新たな魅力あふれる作品だ。


相変わらず言葉の使い方は天才的、

かつての「ミスチル」のような挑戦的な言葉選び、

柔らかな音楽に隠されたナイフ、

時折、グサりと心の奥底を抉る。


ここ最近は「YOASOBI」に浮気していたけれど、

やはり「ヨルシカ」はすごい。


『盗作』に続き、

この『創作』も名盤だ。


今年もヨルシカから目が離せない。

いや、耳が離せない。

 


『春泥棒』

 

『風を食む』

 

「魅力ある文章」とは?

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ここ最近記事を書いていて思うこと、

「文章に気持ちが乗っかっていない」のだ。


私は「反骨心」を糧にするタイプ、

加えて「努力依存症」の「努力中毒者」だ。


だからクソみたいな目にあって、

それを糧にして記事を書き続けてきた。


おそらくその時期は、

文章に「気持ち」が乗っかっていた。


支離滅裂であっても、

読んでいて心に響くものがある。

手前味噌だが「いい文章」を書いていた。


だけれども今の私、


間もなく記事数が1000に届くくらいだから、

「書くこと」が当たり前になってしまったのかもしれない。


何の装飾もない無骨な文字たち、


私のブログははっきり言って読みづらいだろう。

それを承知でこのスタイルを続けてきた。


凝れば凝るほどに、

「続けること」のハードルが上がるから、

なるべく簡単に、シンプルに、文字だけで、

私は私の心を綴ってきた。


「文章の魅力」


「情報」としてではない。

ただ「文章」としての魅力、


それを醸し出すためには、

きっと、文章に「心を乗せること」が不可欠だ。


文章に乗せられた心、

それに感応して心が動かされる。


直接会わなくても、

心と心が触れ合うから、

人は感動するのだ。


「心の叫び」


私にはきっと叫びたいことがたくさんあった。

たくさん、たくさんあった。

だからここまで続けてこられた。


だけれども今は、

不平、不満はたくさんあれど、

「叫びたいこと」ってのは、あまりないのかもしれない。


どちらかと言えば囁きたい。

そして囁かれたい。


「特定の誰か」に向けて、

心からの「愛の言葉」を囁きたい。


そして、

「ささやか」でいい。


それに応じてくれる小さな小さな声、

そんな不確かなサインを聞き逃さずにいたい。


「私の文章は私のもの」


そう思っていたけれど、

私は私の文章をささげる相手を探しているのかな。


あいにく「特定の誰か」

そういう相手には巡り合えていないけれど、

書き続けたことに意味はあると思う。


文章や言葉に心を乗せること、


そんなシンプルだけれどもとても難しい、

そういう習慣を身につけることができたのだから、


心が乗っからない。


いつまで経ってもそういう状態ならば、

きっと私がブログを続ける意味はないのだろう。


ここ最近の文章の魅力のなさは、

私が一番感じている。


「魅力のある文章」

表現の巧拙ではない。


心が乗っかっているのか。

そして乗っかった心が読む人に伝わるのか。


苦しみでも怒りでも憤りでもいい。

そういう「心」が伝わってくるもの、


それを「魅力」と呼ぶのだろう。

 

「若すぎる子」からチョコをもらった話

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先日のバレンタインデー、

こんな私でも「若い子」からチョコをもらうのだ。


誰からもらったのかと言うと、

未就学の姪からだ。


「若い」と言っても、

「若すぎる」のだけれども、


私は姪と仲良しなものだから、

あだ名で呼ばれている。


私が実家にいるのを聞きつけたらしく、

親である妹から「姪ちゃんがチョコ持っていくね」とのこと、


楽しみに待っていると、

「来た」

ワクワクしながら会いにいく。


このようなご時世だからと、

中には入らずに玄関先での対応、


姪ちゃんは照れた様子で私にチョコを差し出す。


その様子を見て、

「これはもしや本命か」と期待する私、


すると姪ちゃん、

「これは「ますくん」で、これはおじいちゃんで、

そしてこれはおばあちゃんの分」


私の手の上に集まる3つの箱、

全部同じ奴だった。


完全に「義理」だ。

なんてことだ。

「本命」ではなかった。

 

それも母と同じなのか。

異性とも見られていない。


「若い子」から本命チョコをもらえるかと期待していた私、


だけれども、

どうやら私にそんな甲斐性はないようだ。


「ちゃんとお返しを考えなければならないな」

もらった瞬間にそんな考えがよぎる。


義理チョコをもらった男の宿命だ。


謀ってか、謀らずか、

これで姪ちゃんは「お返し」を3つも確保したわけだ。


チョコも嬉しかったけれど、

一生懸命書かれているヘニャヘニャの字を見て、

「姪の成長」を感じたことが嬉しかった。


少し前までは「10」までしか数えられなかったのに、

文字まで書けるようになったのだ。


当の親はとんでもなく大変なのだろうけれど、

傍から見たらなかなか会えない分、

大きな成長を感じる。


更に年下の甥まで、

私のことをあだ名で呼ぶようになった。


私の人生は何も進まないけれど、

「世界はちゃんと進んでいるのだな」


そう感じさせてくれた、

甘いけれどホロ苦い、姪からのチョコだった。


まだ食べていないから、

味はわからないのだけれども、

 

「人生」は何が起こるかわからない

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「世界」が輝いて見えるならば、

それはあなたの「心」が晴れやかだから、


「世界」が薄暗く見えるならば、

それはあなたの「心」が曇っているから、


嫌なことはある。

毎日、毎日やってくる。


それに一喜一憂していたら、

まるで誰かの「奴隷」みたいだ。


「何かに従っていれば楽」

「何も考えたくない」


そうやって「心」に蓋をしてしまったら、

あなたの「世界」は暗闇に包まれてしまう。


「外の様子」が気になって仕方がないくせに、

言い訳ばかりを盾にして、

差し込む光の眩しさに怯えてばかりで、

終いには耳までふさいでうずくまっている。


だから見えないんだよ。


働いていたって、

友達といたって、

恋人といたって、


「世界」が暗闇に包まれているから、

「隣にいる人」の顔も見えない。


「心」をどこかに置き忘れてしまったのかな。


辺りを手探りしてみても、

真っ暗で何もわからない。

 

見えていると思っているけれども、

本当に見えているのかな?


隣にいる人も、

鏡に映る自分の顔も、

空も大地も雨も雲も、


自分が存在しているはずの、

この「世界」のことを本当に見えているのかな?


「心」を動かしてもいないのに、

ちゃんと「世界」を見ているような気になって、


「心」は一歩も動いていないのに、

身振り手振りだけは「感動」を表して、

「ふり」ばかりが上手になっていく。


「世界」が色あせて見えるならば、

もう何年も薄暗く見えるならば、

みっともなくてもいいからさ。


なりふり構わずに、

「心からの感動」を掴み取りに出かけたらどうだろうか。


「遠くに行けばいい」というわけではない。


「心」の上に乗っかっている、

大した重さもないその蓋を、

少し横にずらしてやるだけでいい。


始めは差し込む光の眩しさに、

目がくらんでしまうだろうけれど、

徐々に目を慣らしていけば気が付くはず、


「世界はこんなにも輝いている」


そこからがスタートなんだ。

何度だってスタートを切りなおす。


スタート地点は、

いつだって自分が決めるもの、


「バン!」


ほらまた、

スタートを告げる銃声が鳴り響く。


そう思ったけれど、

銃口はこちらを向いていた。


どうやら、

心臓は貫かれてしまったようだ。


「ポジティブ」なだけでは、

生きてはいけないのだ。

どこで誰が狙っているのかわからない。


銃口の向きには気をつけろ!


by 「本能寺の変

 

「大事なところ」を「隠す」から見たくなる

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はてなブックマークにエントリーされていたけれど、

Twitterで投稿されていた面白い漫画を見た。


 

マスク着用が義務付けられた、

今から10数年後の世界という設定だろうか。


その世界では「鼻」や「口」を恥部とみなされて、

人々はそれらを見られないようにして生活する。


設定が秀逸だ。


ずいぶん昔の記事だけれど、

「衣服と言う文化が生まれなければ、

裸を見ても欲情しないのかもしれない」


そんなことをブログに書いた記憶がある。


アダルトビデオの設定では、

「性に対するハードルが異常に低い」だなんて、

そんな世界が描かれることはあるけれど、

この作品はその逆を行くもの、


それでいて世相を上手く捉えており、

「もしかしたら起こりうるかもしれない」

そんな説得力を持っている。


我々の感覚だと、

「そんなことあるわけがない」と思うことでも、

人は生まれた時から当たり前にあるものに違和感をもたない。


昔見た動画で衝撃的なものがあった。

赤ちゃんが紙の雑誌を指でスワイプしているのだ。

 

その赤ちゃんからしたら、

生まれた時から当たり前のように存在する、

スマホ」や「タブレット」のほうが理解できて、

「紙の本」は理解できない存在なのだ。


それにイスラムの世界では、

女性は肌の露出が禁忌であるという。


日本人の感覚ではそこにエロティシズムを感じないけれど、

その文化に染まった人たちには、

そこに感じるものがあるのかもしれない。


「文化」というものは環境が生み出すもの、


だから、これから先の未来、

「マスクの下を見られるのは恥ずかしいこと」


そういう文化が広がっていけば、

数十年後にはそういう世界になっているかもしれない。

 

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さて、表題に戻ろう。


大事なところを「隠す」から見たくなる。

人の心理としてはとても理解できる。


「知的好奇心」の源泉としては、

主に次の2つが挙げられるだろうか。


1つ目は、

人は「わからないもの」を恐れるので、

不安を避けるために「知的好奇心」を刺激する。


2つ目は、

「見てはいけないもの」に触れるスリル、

「生きている実感」を得るために、

快楽物質を分泌を促す目的で刺激を求める。


さらに「性」が絡むと、

厄介なことに「種の保存欲求」と言うものが加わる。


これらを総合して考えると、

「隠す」という行為により、

「2つ目」が大いに刺激されることになる。


人がものを食べるという行為、

確かにある面では「性的」な印象はなくはない。


「食事中に居心地が良い人とは体の相性がいい」なんて、

まことしやかに書かれているものを見た記憶がある。


「人前でものを食べることのできない」

そういう摂食障害もあるようだ。


「口の中」を見られることは、

「体の中」を見られること、


その点からすれば、

「口」や「鼻」は「恥部」としての役割を果たすのかもしれない。


それを日常的に隠すことになれば、

「羞恥心」を飛躍させる可能性は十分にある。


今は隠したままだと生活がままならないから、

当たり前のように「口」や「鼻」を出して生活している。


だけれどもこれから先、

何年、何十年も「マスクをしたままの生活」が定着するかもしれない。


方法は思いつかないけれど、

マスクをしたまま飲食をする時代になれば、

「マスクの下を見られることは恥ずかしい」と思う。

そういう未来が待っているのかもしれない。


現に今でも自粛警察たちが動いて、

「マスクをしていないと悪」だなんてさ。

さらに飛躍して「ウレタンマスクは悪」だなんてさ。


このまま進めば、

「食事中にマスクを外すのは悪」だとか、

「食事は家でするべきだから外食自体が悪」だとか、

「親しい人以外に口元を晒すのは悪」だとか


何がどう進むかわかったものではない。


私はそういうところズボラだから、

掃除のおばちゃんに用を足しているところを見られても気にしないし、

運動部上がりで「でかちん」とバカにされるような学生生活を送った。


だけれども、

気にする人たちからしたら、

口元をみられることすら「恥ずかしい」って、

羞恥心が飛躍するのかもしれない。


ん?ちょっと待てよ。


「でかちん童貞」ってパワーワードだな。

何やら面白いキャッチコピーを見つけたのかもしれない。


いや、この話には関係ない。

この先は収拾がつかなくなる。


まとめよう。


「隠す」から見たくなる。

スリルを求めて快楽物質を分泌させるという目的では、

そういう面はあるのだろう。


だからこれから先、

「マスクの下」に対して羞恥心が生まれたら、

もしかしたらそこが「恥部」にまで飛躍する可能性はある。

 

2000文字も書いたけれど、

この記事の内容はこれだけで済むな。

 

簡単に書けることを長ったらしく書くのがエッセーだ。


「寄り道」の中で生まれるパワーワードもある。

だから人生は面白いのかもしれない。

 

そういうことにしておこう。