「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「勃っていたくせに」と言われてみたい

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友達と「その彼女」がうまくいっていないらしく、

友達の彼女から「恋愛相談」を持ち掛けられて、

そうこうしているうちに「いい雰囲気」になって、

友達と彼女との関係は悪化の一途を辿っていく。


相談に乗りながら二人並んで歩いていると、

目の前の信号が「赤」に変わった途端、

急に彼女が私に抱き着いてきて私の胸の中で一言、

「好きになっちゃった」って、


だけれども、

私は「あいつを裏切ることはできない」って、

かっこつけて欲情よりも友情を優先しようとして、


挙句の果てに、

ギュッと私にしがみつく彼女に対して、

「もう一度あいつと話し合ってみたら」だなんて、

ズレたセリフを伝える始末、


彼女は私の背中に回していた手をサッと離すと、

頭だけ私の胸にもたれかかり、

うつむきながら強烈な一言を放つ、


「勃っていたくせに」って、

その一言だけを残して足早に去っていく。


私は呆然としながらも、

その後ろ姿を、

ブラウスの両腕の袖をギュッと握りしめながら、

両手を大きく横に振って力いっぱい走り去る後ろ姿を、

「後悔」と共に見送るのだ。


ふと前を向き、

「青」に変わった信号に目を向けると、

彼女とは「逆の方向」へ向かい、

ゆっくりと歩みを進める。


信号が変わるまでのたった45秒、

その間に大きく揺れ動く心、


下半身は反応しても、

そのスピードに心はついていけなかった。

 

 

 

ただの妄想だ。

そんなシチュエーションが「いいな」と思った。


「こういうものへの憧れ」


私の恋愛観の本質を突いている気がする。

そうやって私は何度もチャンスを逃してきた。


「誠実な自分」に酔っているのだろう。

結局私は「私が納得する形」での恋愛しか認めようとしないのだ。


私は頭で考えることを優先しすぎる。

もっと体に正直でもいいのかもしれない。


だから私は童貞なのだ。

 

「YouTuber」は経費でガチャを回せるらしい

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昨日に引き続き「ソシャゲ」シリーズ、

 

いわゆる「ソシャゲ」の実況動画、

ゲームの攻略やガチャの結果を配信する。

そういうものを生業にしている人がいるようだ。


気になったので少し調べてみた。

もしかしたら正しくない箇所があるかもしれないがご容赦、


「YouTuber」


その人たちが動画公開にかかる費用は、

事業としての目的がはっきりしていて、

結果として所得が発生していれば「経費」となるらしい。


これまでソシャゲの廃課金者は、

「中毒者」か「お金が余っている人」なのだろうと、

そう思っていたけれど「仕事」でしている人もいるのだ。


一部の有名配信者は、

「経費」としてガチャを回して広告収入を得ている。


有名YouTuberである「はじめしゃちょー」は、

年間で400万円ほどソシャゲに課金しているということで話題になっていた。


ただ気をつけて欲しいのは、

前述のとおり単体で「所得」が発生するということ、

しかも20万円を超えていなければ

そもそも「経費」としての節税効果はない。


本業で税金を納めていても、

副業と合算して考えられるわけではない。


Youtuberが収益を得るためには、

最低でも1000のチャンネル登録数が必要みたいだ。友人で副業「YouTuber」をしている人がいるけれど、

聞くところによると1000人と言うハードルは相当に高いらしい。


しかもそこに至っても、

生計を立てられるわけではない。

目安としては登録1000人で月に広告収入1500円程度とのこと、


雀の涙ほどの収入のために、

そこからも動画を上げ続ける日々が続く。


一回のガチャ動画をあげるためにかかる費用は、

最低でも数万に及ぶだろう。


そう考えると1つの動画で最低でもそれ以上稼ぐことができなければ、

「経費」としてあげても得をすることはない。

結局はゲーム自体を楽しんでいないとできないことなのだ。


あれは学生の頃だったか。

もう社会人になっていたか。


随分前のことだけれども、

前にあるソシャゲで知り合った人たちとの「オフ会」に参加したことがある。

短期間アメブロで開設していたゲームブログでのつながりだった。


私は「無課金でいいところまで行く」というのを売りにしていたけれど、

「オフ会」に参加するくらいだから参加者は強者ぞろいだった。


参加者で最年少の若造だったから、

不躾に色々話を聞いたりしていた記憶があるけれど、

直接は口にしなくても、

話の流れから「経営者」や「個人事業主」なのだろうなと言う人が多かった。


個人的に繋がった人も一人か二人はいたけれど、

多くはそれっきりであとはゲームの中、


真相はわからないけれど、

「ソシャゲ」の上位層はきっと富裕層ばかりなのだろう。


ただ一つ言えることは、

経済的に破綻しておらず、

ゲームそれ自体を楽しんでいればそれでいいということ、

そこに「いきがい」やら「自尊心」を求めるとおかしなことになる。


お姉ちゃんがいるお店に1回行くのに何十万も使う人もいれば、

推しのアイドルに何百万使う人もいる。


「お金の価値」も「時間の価値」も人それぞれなのだ。

それで成り立つ生業があって、

そこでしか生きていけない人たちもいる。


だいぶ話が逸れたけれど、

私が無料でゲームに興じられるのは、

たくさん課金している人がいるからだと感謝して、

「ソシャゲ」とはほどほどの距離感を保つこととしたい。


「経費」になろうがなるまいが、

課金したい人は課金をするのだ。

 

「ソシャゲ」との付き合い方を考えないといけない

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前にも記事にしたけれど、

去年の自粛期間からテレワークが増えたものだから、

生活の効率化を進めた結果、

独身で相手もいない私は時間を持て余すようになった。


更に休日は人と会う機会が極端に減ったものだから、

空いた時間を埋めるために、

Amazonプライムで映画やアニメを漁りだしたり、

友人に誘われて「ソシャゲ」を始めたりもした。


「ソシャゲ」

 

いわゆるソーシャルゲームのこと、

みんなが電車なんかでスマホ片手にピコピコやっているあれだ。


空き時間を活用して、

スマホで手軽に人生が進んでいる感覚を得られる、

そして大抵の場合、

その努力が報われるという素晴らしいツールだ。


結果として、

「リアル」よりも「ゲーム」に存在価値を委ねて、

際限なく課金したり時間を費やして、

バーチャル空間に自分の「居場所」を見出す。


そんな依存性の高いものでもある。

随分と前から社会問題の一つとして取り扱われている。


「リアル」は報われない努力ばかりだから、

「ゲーム」に時間とお金をかけて報われたいと願う。

だから大抵のソシャゲは努力は報われるシステムになっている。

 

コツコツ貯めた無料のアイテムでガチャを引き、

たまに「人権キャラ」と言われる、

持っていないとまともにゲームを進められないようなキャラを引いては、

脳内物質をドバドバと分泌して悦に浸る。

おそらく「その瞬間」のために努力しているのだ。


そうやって「射幸心」を煽ることで、

「中毒症状」を生み出して課金させていくという、

良くできたビジネスモデルだ。


今ではゲーム専用機の市場を凌駕して、

大手会社も当たり前のように参戦している。

それを原資にプロ野球球団を持つ会社まで現れるという、

いわば「ドル箱産業」だ。


多分に漏れず、

私も「リアル」が全く進まないものだから、

課金はしていないけれど、

徐々に「ソシャゲ」に「時間」を費やすようになる。


そしていつしか、

「楽しむ」ために始めたはずなのに、

「追い立てられる」ように続けている。


どこかで目にした記事によると、

適度に「課金」する人よりも、

無課金」にこだわる人のほうが依存性が高いらしい。


私はケチなものだから、

無料で楽しめるゲームに課金しようとは思わない。

だから時間をかけることでギャップを埋めようとしている。


その結果として、

客観的に見たらお金をかけるよりも、

随分とコスパの悪いことをしているのかもしれない。

 

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私がしている「ソシャゲ」は、

大手ゲーム会社の有名ブランド、

ランキングでも上位に来るようなものだ。


私は「ソシャゲ」を何度か辞めたり始めたりしている。


大抵は仕事が忙しくなったり、

生活サイクルの変化に伴い継続困難となるか、

ゲーム要素が複雑になったり、課金必須の状況になったり、

ゲーム環境の変化についていけなくなり辞めている。


今回のゲームは1年くらい続けている。

今の地位を保つには課金必須に近い状況になってきたものだから、

そろそろ嫌気がさしてはいるのだけれども、

今のところは機械のように毎日ピコピコと続けている。


時間はそれなりにかけたし、

ガチャの引きも悪くなかったものだから、

無課金の割には」かなりいい線行っている。

十分に重課金者の射幸心を煽るための養分にはなるくらいだ。


私はお金にシビアだから、

この先のステージに進んだことはないけれど、

人によっては月に何十万も課金するらしい。


本当によくできたビジネスモデルだ。


お金は余っているところにはたくさん余っていて、

そういう人ほど優越感に浸るのが好きなのだ。

 

競争を勝ち抜いてきたからこそ、

競争に対してポジティブな印象を持っているお金持ち、

その闘争心を駆り立てることで集金する。


ある意味では「お金」と「時間」を投資して、

その「優越感」を獲得するための戦場、


そこに自分の存在価値を委ねてしまうと、

なかなか抜け出すことができなくなってしまう。


私にしたところで、

無課金」という属性を盾にして、

「時間」を費やして「よくやっている」と悦に浸る。


「お金」はかけなくても、

「時間」はたくさんかけている。


「Time is Money」


損をしていないように思っているけれど、

嫌気がさしながらゲームをしていること自体、

おそらく損をしているのだ。


少し深く足を踏み入れすぎているのかもしれないな。


ゲームやアニメに漫画、

どんどん費やす時間が増えてインドアになっている。


社会的には褒められた休日の過ごし方なのだろうけれど、

かつては休日に予定のない日の方が珍しかった私、


どんどん人との接点は減っていき、

どんどん婚期を逃していく。


大丈夫か?わたし、


日課のようにピコピコとゲームをして、

朝のノルマを終えたあたりでふと我に返ると、

大きな虚しさを感じてしまう。


何度も書くけれど、

とてもよくできたビジネスモデルだ。


リアルは何も進んでいなくても、

ゲームの中では強くなっていく。

これは「こっち」に軸足を置いて生きる人が出てくるわけだ。


望む将来があるのならば、

「ソシャゲ」との付き合い方を考えなければならないな。

 

「思い出し笑い」について考えてみる

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不敵かつニヒルな笑顔、


「コナン君どうしたの?」

と蘭姉ちゃんに聞かれたときに、

「ん-ん。思い出し笑い」と答えるコナン君、


裏では真相に近づいていることを、

ほくそ笑んでいるのだ。


「思い出し笑い」の半分は、

「嘲笑」を誤魔化すための言い訳なんじゃないかな。


誰かのバカみたいなところを見てしまったけれど、

表立ってバカにするわけにはいかない。


だから「ん-ん。思い出し笑い」ってさ。

とりあえずそういうことにしておけばいい。


「思い出し笑い」


そもそも現実にそんなことってあるのだろうか。

私の人生を振り返ってみて、

「思い出し笑い」をした経験を思い出すことができない。


何かをきっかけにして、

「そういえば笑い」というものはある。


だけれども、

きっかけもないのに脳内で何かをこねくり回して、

急に笑い出して「思い出し笑い」をする。

普段からどれだけ頭の中が笑いに包まれているのだろう。


思い当たらないのは私だけだろうか。

 

皆さんは「思い出し笑い」を日常的にしているのだろうか。

逆に私の脳内が殺伐としすぎていて、

「思い出し笑い」もしないくらいヤバいのだろうか。


そもそも、

「急に笑い出す人」をあまり見たことがない。

加えてその理由が「思い出し笑い」

そういう人に出会った記憶がない。


もしかしたら、

「思い出し笑い」をする人は、

コナン君くらいしかいないのではないだろうか。


いや、コナン君ですらも、

「ほくそ笑み」を誤魔化しているだけか。


それはさておき、

笑いはメンタル不調の改善に有意に働くらしい。


私も1時間に1回くらい、

「思い出し笑い」をするような生活をしたいものだ。


私は別の意味でお花畑だけれども、

頭の中が「笑い」であふれていたら、

なんとも幸せそうだ。


イライラしたら、

頭の引き出しからネタを引っ張り出して「思い出し笑い」


舐めたマネをされたときも、

舌打ちの代わりに「思い出し笑い」


最強だ。

おそらく怖がって誰も近づかなくなるな。


昔何かの番組でやっていたけれど、

「科学的に考えた最も面白いネタ」と言うものがあった。


脳科学者やら心理学者やらが議論を重ねたうえで出来上がったもの、


何も知らされていない人たちを結構な数集めて、

フォーマルな恰好をした人が急に登壇するや否や、

「私は人一倍性欲が強いです」と一言だけ叫んで捌けていく。


そういうものだった。


結果は当然のことながら「大爆笑」とはいかずに、

「しーん」と静まり返る。


笑いと言うものは難しいのだ。

だから急に「思い出し笑い」をする人がいてもおかしくはない。


笑いのツボは人それぞれなのだ。

「信念を持つ」ということと「独善的」であることの差

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おそらく両者の違いは一見すると紙一重

だけれども相手への伝わり方は180°違う。


前者は「共感」を生み出し、

後者は「反感」を生む。


できることならば、

私は「信念の人」でありたいと願う。


両者の違い、


平たく定義づければ、

客観的事実に基づく「一貫性」があるか否かだろうか。


人は長い間、同じ環境に身を置き続けると、

居心地の良さを求めて無意識にバイアスをかける。


そのバイアスが知らずのうちに自分の中で肥大していき、

気がつくと「ニューノーマル」へと変わっている。


新海誠言の葉の庭

「人なんてものはみんなどこか少しずつおかしい」


とても印象的な言葉だ。


その「おかしい」ところを探り合って、

パズルのピースのように互いの心が持つ隙間へとはめていく。

その作業の末にあるものが「共感」だ。


上辺だけではない。

心からの共感、


それを目的としているか否かで、

今突き進んでいる道が「信念の道」なのか、

それとも「独善的な道」なのか、

その差は生まれるのかな。


人の心に寄り添うこと、


初めは「信念」だったはずのものが、

気がつくと「独善的」に変わっている。

いつだって自分のことを疑い続けなければならないのだ。


成果が上がれば上がるほど、

「自分は正しい」と思い込む。


確かに努力によって「正しい」精度は上がっているのかもしれないけれど、

いつだって正しいということは絶対にない。


「信念を持って行動する」というけれど、

その「信念」すらもチューニングが必要なのだ。


人々の心によって、

世界は形作られていく。

それならば自分の心もアップデートの対象だ。


そんな当たり前のことすらも忘れてしまって、

人を食い物にし出したら終わり、


意図して、

誰かを踏み台にして得た先にあるもの、


たっぷりとバイアスかけて、

甘い蜜でドロドロに塗り固められた、

中身は苦くて臭い「正露丸糖衣A」のようなものだ。


これがまた腹痛に効くものだから、

始末に負えない。


「腹黒さ」に働く自浄作用、

だけれども「痛み」は取れても「腹黒さ」は変わらない。

 

そうやって「痛み」に鈍感になっていくうちに、

「自己正当化モンスター」は生み出されていく。

 

各々気をつけなければならない。

「誰かの時間を買う」時代

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誰かの時間を買うことで、

自分の時間を創出する。

そのためのサービスが幅を利かせているようだ。


家事代行サービスなんてものは、

昔から存在したけれど、

今は人が動かずに物が動く時代、


「UberEats」やら「出前館

割高なコストを支払って、

買い物や調理をする時間と手間を軽減する。


大手スーパーなんかも、

着々と配送サービスを充実させているらしい。


格差社会の象徴」


時間を「買う側」と「買われる側」

私はどうしてもそこに格差を見てしまう。


「時間が愛に変わる」


愛を確かめたいならば、

プレゼントの値段なんかよりも、

相手がどれだけ自分のために時間を使ってくれるかを見たらいい。


誰かがそんなことを書いていた。


人々はいつだって駆り立てられているからさ。

「時間」というものの価値は上昇する一方だ。


足りない人にはとことん足りないけれど、

余っている人にはとことん余っている。

「お金」だけではなく「時間」も格差は広がっていくのかな。


トマ・ピケティの理論として有名だけれども、

労働賃金の上昇率よりも、

投資の利回りの上昇率が高い。


お金のある人のところにばかりお金は集まる。

今の世の中はそういう風にできているのだ。


社会は不安定で経営破綻している会社が多い中、

それにも関わらず株価は不気味に上昇を続けている。


時代は変わらないどころか、

「格差拡大」へ向けて加速している。

そういうことなのかな。


「時間」が「お金」で買えるようになったら、

「時間」も同じように、

「お金」のある人のところに集まるのだろう。


いや、そうとは限らない。


「終わりの時」

それがいつ来るのかは人によって違うのだ。


いくら「時間」を「お金」で買い集めたところで、

そもそも手持ちの「時間」は不平等なのだ。

 

100年生きる人もいれば、

50年で死んでしまう人もいる。

 

先のことはわからない。

 

だから「時間」にどれだけの価値を見出すかは、

個人の価値観に委ねられる。

 

そう考えると、

「時間を買う側」と「時間を売る側」

格差があるように見えても、

その間に釣り合いは取れているのかもしれない。

 

「やりたいことがたくさんある」

だから時間の価値は高い。

 

「時間を持て余している」

だから時間の価値は低い。

ただそれだけなのだ。

 

お金に対する価値観も同様だろうか。

 

結局は個人が何に価値を見出して、

どのように生きるのか。

 

指先一つで億万長者に上り詰めた人もいる。

寝る間を惜しんで働いても生活が豊かにならない人もいる。

 

ある人は「時間」も「お金」も持て余している。

ある人はどちらも足りずに困っている。

 

資本主義だからさ。

仕方のないことなんだろうけれども、

もっと分かりやすく経済的な損得について、

社会の仕組みについて教育が行われていれば、

こういうことにはならないんじゃないのかな。

 

国が国民から搾取するために、

敢えて国民をバカにしていると思うのは私だけだろうか。

 

携帯電話通信会社のわかりにくい料金体系、

国総出であれを行なっているようなものだ。

 

無料通話をオプションにしたら、

「わかりづらい」と批判した大臣がいたけれど、

国民からしたら国の制度の方が「わかりづらい」

 

悪用する輩を撲滅して、

もっとシンプルに制度を実施することができれば、

「お金」も「時間」も格差は少なくなるんじゃないかな。

「精神的ゆとり」がないと約束も守れない

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悪意もないのに、

「約束を破ろう」と思って破る人はいないだろう。


そんな人はただのサイコパスだ。

近づかないことをお勧めする。


「ゆとり」がないから、

「やむなく」人は約束を破るのだ。


だから相手の背景を理解することに努める。


「不快」な思いをしたときに、

まずはそこから取り組むべきだ。


「自分には見えていない事情があるのだろう」


そういう仮定を立てたうえで、

一度気持ちを落ち着かせてみる。


「ゆとり」のない相手に対して、

こちらまで「ゆとり」をなくしたら、

事態は収拾つかなくなる。


何度も何度も同じことで「約束を破られる」


そうすると、

今度は相手の精神的気質に問題があるのかもしれない。


それが自分にとって「度し難いもの」であれば、

今後を考えないといけないし、

「我慢できるもの」であれば話し合う。


自分には当たり前のようにできても、

それをできない人もいるのだ。


逆もまた然り、

私にはとてもできないことを、

相手は得意かもしれない。


だから「精神的ゆとり」を持つこと、


「約束を破らないため」に、

そして「約束を破られたとき」に、

そのことを忘れずにいたい。


私は「合理性」という名の「正義」が、

私にあると結論するや否や、

その「正義」を振りかざして相手を威圧する。


そういう傾向にあるようだ。


得に「不誠実」な相手に対しては、

格好の餌食とばかりに「正義」を振り下ろす。


それは私が「自分の価値」を信じられていないことの証明、


相手の「不誠実さ」に引きずり出される、

私の「醜い本性」なのだ。


ONE PIECE』でのワンシーン、


海の皇帝の一人と呼ばれるシャンクス率いる赤髪海賊団が、

明らかに格下の山賊たちに酒をぶっかけられても、

へらへら笑ってやり過ごしていた。


それを見た子供のルフィは、

「なんでやり返さないんだよ。弱虫」と、

シャンクスたちをなじる。


だけれども山賊たちの横暴にルフィが突っかかり、

殺されそうになるや否や、

颯爽と現れて山賊たちを凝らしめる。


なじられたときにルフィに語った、

「酒をかけられたくらいで怒るほどのことじゃない」

その言葉が重みをもつシーンだ。


これが「精神的なゆとり」ってやつなのかな。


「自分の価値を誰かに委ねない」


だから馬鹿にされたところで、

何も傷つかないから怒りも湧いてこない。


相手の「不誠実さ」に怒りを起こしているようでは、

まだまだ甘いのだ。


損をしないように対処はしても、

それと「怒り」は別物、


ひと手間かけさせられたところで、

底にも新たな発見があるかもしれないのだ。

無駄なことはない。


大した被害もないことに対して、

いちいち感情を逆立てて、

イライラしている時間がもったいない。


おそらくかかる「ひと手間」よりも、

イライラしている時間のほうが長いことがほとんどだ。


「精神的なゆとり」


イライラさせられた時ほど、

「自分の」そして「相手の」それを意識したほうが良いのかもしれない。


悪意を持って「約束を破る」

そんな「ド変態」に会うことはほとんどないはずだから、

きっと何か理由があるはずなのだ。

 

そう思うことができれば、

少しばかり相手のことを受け入れることができるのかもしれない。