おそらく両者の違いは一見すると紙一重、
だけれども相手への伝わり方は180°違う。
前者は「共感」を生み出し、
後者は「反感」を生む。
できることならば、
私は「信念の人」でありたいと願う。
両者の違い、
平たく定義づければ、
客観的事実に基づく「一貫性」があるか否かだろうか。
人は長い間、同じ環境に身を置き続けると、
居心地の良さを求めて無意識にバイアスをかける。
そのバイアスが知らずのうちに自分の中で肥大していき、
気がつくと「ニューノーマル」へと変わっている。
「人なんてものはみんなどこか少しずつおかしい」
とても印象的な言葉だ。
その「おかしい」ところを探り合って、
パズルのピースのように互いの心が持つ隙間へとはめていく。
その作業の末にあるものが「共感」だ。
上辺だけではない。
心からの共感、
それを目的としているか否かで、
今突き進んでいる道が「信念の道」なのか、
それとも「独善的な道」なのか、
その差は生まれるのかな。
人の心に寄り添うこと、
初めは「信念」だったはずのものが、
気がつくと「独善的」に変わっている。
いつだって自分のことを疑い続けなければならないのだ。
成果が上がれば上がるほど、
「自分は正しい」と思い込む。
確かに努力によって「正しい」精度は上がっているのかもしれないけれど、
いつだって正しいということは絶対にない。
「信念を持って行動する」というけれど、
その「信念」すらもチューニングが必要なのだ。
人々の心によって、
世界は形作られていく。
それならば自分の心もアップデートの対象だ。
そんな当たり前のことすらも忘れてしまって、
人を食い物にし出したら終わり、
意図して、
誰かを踏み台にして得た先にあるもの、
たっぷりとバイアスかけて、
甘い蜜でドロドロに塗り固められた、
中身は苦くて臭い「正露丸糖衣A」のようなものだ。
これがまた腹痛に効くものだから、
始末に負えない。
「腹黒さ」に働く自浄作用、
だけれども「痛み」は取れても「腹黒さ」は変わらない。
そうやって「痛み」に鈍感になっていくうちに、
「自己正当化モンスター」は生み出されていく。
各々気をつけなければならない。