「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

【プロ野球2021】悪夢のような逆転サヨナラ負け

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ヤクルト3-4xオリックス

 

9回まで3-1とリードから、抑えのマクガフで悪夢のような逆転サヨナラ負け、

 

宗に同点打を打たれた瞬間は頭を抱えてしまいましたよ。

続く吉田には初球を仕留められました。

ピッチャーはマクガフ、

東京オリンピックアメリカ戦を再現するような試合でしたね。

 

このゲームを取ることができれば絶対エース山本からの勝利、

流れをグッと引き寄せられただけに痛い敗戦です。

 

奥川が山本に投げ勝ち、

村上が勝ち越しアーチ、

完全な勝ち試合でしたからね。

 

これでセ・リーグ球団はパ・リーグ球団に日本シリーズで13連敗、

しかも相手の本拠地では20連敗とのことです。

この流れでも勝てないとは完全に呪われていますね。

 

思うところはありますが、誰かを槍玉に上げたところで結果は変わりません。

ここまで勝ち上がってきたチームですから、あとは信じるしかありません。

 

完全に相手を勢いづけさせてしまった形、

あまりにも痛い敗戦です。

 

しかし、そうも言っていられないので、気を取り直して勝ちにいくしかありません。

 

村上に1発は出ましたし、オリックスもセットアッパーのヒギンスを使いにくい状況、

4番の杉本は完全に抑えました。

次につながる部分もあったと思います。

 

ヤクルトはマクガフをどうするかですね。

今後9回まで勝っていた場合に高津監督がどのような采配をするか。

マクガフは打たれても次の試合で開き直って抑えたりしますからね。

その辺りは全くわかりません。

 

さて、相手の本拠地ですからね。

もう一戦を取ることができれば俄然有利です。

割り切るしかありません。

 

この試合はファンが球場の雰囲気を作って勝利に導いた形、

最後まであきらめないことの大切さを感じました。

 

初戦から大きな試練ですが負けていられませんね。

もともと勝てれば万々歳だった試合、

日本一を掴み取ることはそんなに甘くはないのでしょう。

 

とにかく次は何としても勝って欲しい。

このまま流れを渡してしまうわけにはいきません。

 

それにセ・リーグの代表として、このまま終わるわけにはいきませんからね。

セ・リーグファンの皆さんの力をスワローズに分けて欲しい。

 

20連敗だなんて、それで終わっていいはずがない!

是が非でも次は取りましょう!!

 

大阪ドームで絶対に勝つ!

そして流れを引き寄せる。

連敗で東京に戻るわけにはいきません。

 

チーム一丸、絶対大丈夫!

 

ブログを続けて1200日の雑感

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ここ最近は、記事を書くことが作業になりつつある。

環境の変化に対応することにリソースを割いているため、心の声を拾い集められていないのだろう。

 

自分のことを俯瞰して見る。

それが日常ブログの効果だと感じる。

 

記事を書くために過去のことを思い起こしてみたりだとか、何気ない喜びや憤り、

それを書き留めておいて記事として形にする。

 

私は何を考えて生きているのか。

それを客観的に評価することが意外と大きい。

 

人は、「自分は特別な存在」だと思って生きている。

その人にとっての自分は1人しか存在しないのだから、それは当たり前のことなんだけれども、

ともすれば、「自分はもっと報われるべきだ」と歪んだ自己愛で自らの非を包み込んでしまう。

 

そうなると、それを肯定するためのフローが完成されていく。

小賢しい人であればあるほどに、理論武装して自己正当化に躍起になり、気がつくと歪みは土台から作り直す必要があるほどに取り返しのつかないほど大きくなっていく。

 

自分の努力を誰よりも知っているのは自分自身、

だけれども「人から見える自分」を自分は誰よりも知らないのかもしれない。

 

言葉を自重したとしても無意識は態度に現れる。

知らずのうちに発するメッセージ、

そこに魂が宿る。

 

だけれども、それは自分では気が付けないことなのだ。

 

だから私は記事を書き続けることで、私のことを客観視してきた。

徐々に書いたものを読み返す機会は減っていった。

 

それは私が私のことを理解した証拠なのかもしれない。

 

読み返しても「同じようなことばかりを書いている」

そう感じるということは、少なくとも私は「今の私」を客観的に見て、「確かな物」だと感じて安心できているのかもしれない。

 

「自分のことがわからない」と人は不安になる。

 

だから私はブログを書き続けることで、自分を理解する努力をしていることで、安心したいのだろう。

 

だいぶ雑多になってしまったが、今書きたいことはそんなところだ。

 

 

「サービスの適正価格」がわからない時代

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今や世の中には無償で得られる情報が溢れている。

 

ドラマ『SUPER RICH』

主人公の新卒で就活中の貧乏専門学校生、

何でもこなす彼の「生活の知恵」

その源はネットで配信されている動画だという。

 

今の若い世代にはそういう人が多いのではないだろうか。

 

誰でも手軽に情報を得ることができる。

そこから得た知恵を生活に活かすことができる。

こんなにコスパの良いものはない。

 

だからみんながそれを当たり前のように利用して、

当たりまえのように享受できると錯覚するようになる。

 

オンライン上は代替可能な情報で溢れかえり、

「サービスの適正価格」がわからない時代に突入しているのだ。

 

何度か同じような記事を書いているけれども、

上を目指せばキリがない。

世界との距離は近くなったものだから、

世界トップクラスの情報に容易に触れることができる。

 

それは若者にとって「ありがたい」一方で残酷だったりもする。

差を痛感して心が折れてしまうことにもなりかねないのだ。

 

子供の頃は誰もが大きな夢を掲げる。

「社長になりたい」「ピアニストになりたい」「プロ野球選手になりたい」

だけれども、どこかでその分野で自分よりも優れた存在にぶち当たることで、それを口にしなくなっていく。

 

今や、子供の頃から現実を突きつけられるのだ。

もちろんそれを糧にして全体のレベルが底上げされるというメリットもあるけれど、「夢を口にしなくなる年齢が早くなる」そういう子供も少なくはないだろう。

 

話を戻そう。

「サービスの適正価格」

 

もしかしたら、それはものすごくフレキシブルになっているのかもしれない。

 

時価であり言い値、

CtoCでサービスを売り買いする仕組みなんかも幅を利かせてきたけれど、決まった値段はあってないようなもの、

そこでの交渉は当たり前なのだ。

 

だから双方が納得する形であれば問題ない。

そういう世の中へと向かっているのかもしれない。

 

「損をした」「得をした」

それ自体が価値を持ってしまって、そこにアドレナリンを分泌させて、物それ自体の価値よりも「損をしないこと」「得をすること」が目的になっていく。

 

競取りを繰り返して資産を増やしていく。

そういうことが推奨される時代なのだ。

 

人は人のことを二次元で認識するようになり、何処かシステムの一部だと思い込む。

画面の向こう側にいる相手は、自分と同じ生身の人間だということを忘れてしまう。

 

現実が拡張されすぎて、リアリティは失われて概念ばかりが肥大化していく。

 

そんな世の中で、我々はどのように価値を決めていけばいいのだろうか。

何度論じても結論は同じになるけれど、

やはり「自己責任」なのだ。

 

価値観が個人に委ねられる時代、

 

「種の保存」という観点からは望ましいことなのかもしれないけれど、肥大化した自意識に苦しむことの多い時代だ。

 

個人の価値観に寛容である一方で、どこか無言の圧力を向けられ続けている。

それを察して、ちょうど良いところでバランスを取り続けることが「生きる知恵」

 

なんだか疲れてしまう世の中だ。

 

「自由」はどんどん広がっていく。

個人の手に委ねられていく。

みんな、その「自由」を持て余している。

だから「適正」という概念は曖昧になっていく。

 

そういうことなのかな。

 

 

1200日連続更新

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昨日の更新で1200日連続更新となりました。

 

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転職してからは、ずっとこの日を目標にしてきましたが、迎えてみたら呆気ないもの、

それだけ私の生活が落ち着いたということでしょうか。

 

少しずつ、少しずつですが、

今の暮らしを自分のものにできている気がします。

 

今年は環境的な変化の大きかった年、

6年ぶりに転職をして、

6年ぶりにスワローズはリーグ優勝、

私が転職した年にスワローズは優勝するようにできているのか。

 

6年前は確かクライマックスシリーズの試合を見に行きました。

今年はチケット外れてシーズンも1度も行けなかったのですが、最後の最後で日本シリーズのチケットが当たりました。

 

日本シリーズはファンクラブの枠がないからなかなか当たりにくいので半ば期待していませんでしたが、ここにきての当たり、初の日本シリーズです。

 

転職活動では内定が2つ出て、さらに新たに資格も取りました。

今年は色々と持っている年なのです。

 

環境が大きく変わってからは、なかなかまとまった執筆時間を取ることができず、過去の遺産で毎日更新を続けるばかりです。

 

私とブログの関わり方は、少し前とはだいぶ変わったものになってきたのかもしれません。

 

掃除を終えたばかりの雑巾を水につけて、それを力一杯に絞る。

それを何度か繰り返すうちに、絞り出す泥水は綺麗になっていく。

私に取ってブログを書くことは、それと同じ作業だったのかもしれません。

 

毒気を抜かれたように、どこか正論ばかりを並べる記事が増えました。

ある意味で、私はどこかにたどり着いてしまったのかもしれません。

もしかしたら、これ以上は何か新しいものが生み出されることはないのかもしれません。

 

泥水の最後の一滴、

それを絞り出してしまったら、あとはいくら絞っても綺麗な水ばかり、

 

もう一度、同じ雑巾を使って掃除から始めようと思い、私は新たな環境へと踏み出したのか。

そして今はまだ雑巾を絞る余裕がないだけなのか。

それはわかりません。

 

これから私のブログはどこへと向かうのでしょう。

私の人生はどこへと向かうのでしょう。

 

最近思うこと、

「結婚をできない人」という人種は一定数いて、それは本人の容姿や性格や収入とは別のところに原因があるのかもしれない。

ある種のカルマのようなもの、

 

おそらく私はそちら側の人間なのだと思います。

パズルを作り上げて最後のピースを埋めるところまで辿り着いたとしても、残ったピースが最後に上手くハマらない。

そんな壊れたパズルを何度も作り直しているように感じます。

 

根本的に何かが変わらなければならない。

平たく言えばそういうことなのかもしれません。

 

私が私であるうちは、

パズルはいつまで経っても壊れたまま。

何度作り直しても完成することはない。

 

そういうことなのかもしれません。

 

私はどこへ向かうのか。

3年以上、毎日思うところを綴ってきましたが、

その答えは全くわかりません。

 

今日は大きな到達点、

 

そのことは間違いなさそうです。

何か漠然と、そのように感じるのです。

 

いつもスターやブックマーク、

コメントまでいただきありがとうございます。

 

何かが変わらないといけない時期に差し掛かったのかもしれません。

今後とも気が向いたらお付き合いください。

 

 

白い息

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見えなかった。

だけれども、確かに呼吸をしていた。

 

外気と吐息との寒暖差、

それにより私は私の呼吸を目にすることができる。

 

頭で理解していただけのことが、

ふと、目の前に現れる。

 

それは、当たり前だと思っていたことが、

実は多くの努力に支えられていたことを知る感覚に似ている。

 

これまで必死に生きてきたと思い込んでいても、

もしかしたら周りも同じように生きてきたのかもしれない。

 

それは個人の実感だから、

単純に比較することはできないけれど、

人はどこかで「自分は特別だ」と思い込んでいる節がある。

 

「アンコンシャスバイアス」

 

それがなければ人生は破綻する。

だから、すべてを否定するつもりはないけれど、

もっと、適切に比較相対する能力を身につけたい。

 

攻殻機動隊』のように、

人はネットワークにつながることでその能力を得るのだろうか。

 

これから先の未来は、

「人」という存在はより観念的になるのかもしれない。

 

確かに存在する。

だけれども目には見えない。

 

そういう観念的なものが力を持つ時代、

 

合理的になればなるほど、

スピリチュアルへと回帰していく。

 

「自意識」は肥大化していく一方だから、

「肉体」という箱では手狭になっていく。

 

そうやって「解放」を求めて、

観念的なものに惹かれていくのだ。

 

口を尖らせて「ふぅ」と吐いた息は白くならない。

「ほっ」と一息ついた息は白くなる。

 

そこに人間という存在の「隙」を感じて、

少しだけ心躍る。

 

肩の力を抜いたその瞬間、

そこに「実存」がある。

 

鎧を着こんで、仮面をかぶって、

外向きの装いばかりを綺麗にしたところで、

吐く息は白くならないのだ。

 

目に見えないもの、

目に見えるもの、

 

それぞれに魅力はあるけれど、

目に見えるほうが安心できる。

 

これから先しばらくは、私は私の息を見て、

「自分は確かに呼吸をしている」と、

そう実感するのかもしれない。

 

寒くなってきた。

冬が近づいている。

感動したがる生き物

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人は「意味」を見出すことによって生きながらえている。

「生きるため」には生きている実感が必要なのだ。


だから、どこかに「感動」は転がっていないかって、

心を動かすことに躍起になっている。

私を含む「努力依存症患者」の多くにはそういう節がある。


でもそれって、ある意味では「不幸」なこと、

目の前に夢中になれることがないってことだから、


何かにつけて予定を詰め込んで、

「予定があること」に充足感を得ている。


なんだか足元が見えていないような気がする。


日常の中にも「喜び」があって「幸せ」があって、

「感動」できるようなことはたくさんあるはずだ。


それを見過ごしてどこか遠いところばかりを見ている。

それってなんだか「虚しいこと」なんじゃないかな。


自分の外にばかり「感動」を探していないでさ。

自分がその「感動」を生み出す主体者になればいい。


人生なんてものはさ。

「主体的」でなければ幸せを感じることなどできない。


「努力していること」自体に「喜び」があるはずなのに、

それでは満足することができずに、その先に何か「感動」を見出そうとする。


目的が「感動」にあるものだから、大したことではなくても大袈裟に褒めたたえて、それを「感動」に仕立て上げる。

別にみんなが喜んでくれればそれでいいんだけどさ。

どこかそこに「違和感」を感じる。


何が幸せなんだろうね。


人にとってはさ。

何が幸せなんだろうね。


結局は「実感」で収まる世界だから、自分で仕立て上げた「感動」に満たされていればそれでいいのかね。


ふとした時に湧き上がる、

そんなナチュラルな「感動」


「感動」にも「天然」と「養殖」があるのかもしれない。

マグロにしたって「養殖」のほうが美味しかったりするらしいから、どちらがいいのかはわからない。


「感動した」「感動した」ってさ。

本人が心からそう思っていればそれでいいのかな。


だけれども、どこかで自分は気が付いている。

その「感動」がつくられたものだってことに、


あとは人それぞれだ。

 

自分を誤魔化しながら生きても良いし、

自分に嘘をつきたくないと息巻いても良い。

バランスとりながらグラグラと揺れている足場を楽しむのも良い。

 

何も否定しない。

誰からも否定されない。

それでも感動があるのであればそれで良い。

 

脳の作り出した高揚感、

それに身を任せて、

ただ時を感じれば良いのだ。

 

ヤバい映画『ミッドサマー』を見て思うこと

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(出典:映画『ミッドサマー』公式サイト)

 

こんなにヤバい映画は初めてかもしれない。

だけれども、どこか「機能的集合体としての人間」の本質を突いている。

 

昨年の話題作、

私が見たのは例の如くAmazonプライムだ。

 

ジャンルは「ホラー」らしい。

にも関わらず、初めから終わりまで牧歌的、

それがヤバさを引き立てる。

 

ネタバレはほぼ無しで書き進める。

あらすじはこうだ。

 

ヒロインは精神的に不安定、

家族を失い、ちょっとしたきっかけで過呼吸に陥るほど深刻な状態、

そんな中での夏休み、

彼氏とその仲間達と共に旅行に行くことに、

場所は仲間の1人の故郷であるスウェーデン

たどり着いたのは人里離れた集落、

独自の風習を研究しようだなんて息巻くが、徐々に怪しげな雰囲気に包まれていく。

 

 

テーマは「人生からの解放」だろうか。

 

現代人は「自由」を与えられすぎたがために、

敢えて、もがき苦しみながら生きている。

 

「男らしさ、女らしさ」

 

今やLGBTが市民権を獲得して、

そうした括りからも人は解放されつつあるのかもしれない。

 

だけれども、あまりにも解放されすぎた先に何が待ち受けているのか。

それは、個人に委ねられたあまりにも大きな「どう生きるのか」という難問、

 

「人として生きるということ」はどういうことなのか。

「生を全うするということ」はどういうことなのか。

自由を与えられれば与えられるほどに、それは個人に委ねられることになる。

 

この映画は「同調圧力の恐ろしさ」を描くと同時に、「同調圧力のありがたさ」を描いているのかもしれない。

現に「居場所」を得たヒロインが最後に見せた表情は、どこかホッとしたというものだった。

 

「理性の象徴」

 

「社会」における道徳やモラルなどが全く通用しない世界で、若者たちは理不尽に屠られていく。

 

「人は特別な存在で、人権は守られるべきだ」

 

あまりにも肥大化した「社会」というコミュニティ、

この作品は、今や当たり前とも言えるべき「人権」という概念に対するアンチテーゼなのかもしれない。

 

だから「ヤバい」のだ。

 

一昔前までは、人は道具であり機能だった。

今でも世界にはそのように扱われている人たちがたくさんいる。

しかし、それは忌むべきものとして扱われ、不都合な真実には蓋をして生きている先進国の住人たち、

 

機能であり、道具であることを当たり前のように受け入れて生きている人たち、

そこにもある種の「安らぎ」があるのだろう。

 

ホワイトカラーとブルーカラー

専門職志望と管理職志望、

結婚するか否か。

子供を育てるか否か。

男として、女として、

 

どこまで挑戦して、どこで割り切るのか。

現代人は社会において、絶え間なく選択を迫られている。

 

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社畜万歳、長時間労働万歳、

かつては働けば働くほど評価されていた。

 

そんな時代から急転直下、

残業は極力減らして家庭での時間を大切にしろ、

男性も積極的に育児休暇を取得しろ、

 

あまりにも振れ幅が大きすぎて、

もはや、何が正解なのかはわからない。

 

だからこそ「正解」は個人に委ねられるしかないのだ。

 

ある意味では恐ろしい時代、

あまりにも求められることが大きくなりすぎて、

どう生きたらいいのかわからなくなっているのだ。

 

だから人は追い詰められると、

それがどんなにヤバいものだとしても、

「居場所」を求めて「同調圧力」に染まる。

 

みんなと同じようにして、コミュニティのルールを守っていれば、「居場所」は保証してもらえるのだ。

それはある種の「安らぎ」を与えてくれる。

 

だけれども、どこまで行っても「自己責任」であることに変わりはない。

 

私が象徴的に感じたシーン、

自ら望んで神への「生贄」として身を捧げることを決意した集落の住人、

火をつけられる直前までは安らぎに満ちた表情、

だけれども、火がつくや否や叫び声を上げて悶え苦しむ。

もはや手遅れなのだ。

 

人は人、人は愚か、

大いなるものに身を委ねることによって得られる安らぎは、必ずしも身の苦痛に勝るとは限らない。

 

どのような結果になろうとも、自分の選択に責任を持ち続けること、

それ以外に正解はないのだろう。

 

近年のアカデミー賞

ノマドランド』に『パラサイト 半地下の家族』

 

「人はどう生きればいいのか」

そんなテーマを扱う作品が目立つ、

 

現代人はみんな「自由」を与えられることに疲れているのかもしれない。

 

本当にヤバいのは『ミッドサマー』に登場する集落なのか。

それとも「現代社会」なのか。

 

考えれば考えるほどに足場は不安定になっていく。

 

だからこの作品は「ヤバい」のだ。

ここまで記事を書いていてなんだけど、この作品を見ることは全くお勧めしない。

 

むしろ見ない方がいいんじゃないかと思うくらいだ。

もしも興味があるのであれば、心して見た方がいい。

 

そんな作品だ。