「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

感動したがる生き物

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人は「意味」を見出すことによって生きながらえている。

「生きるため」には生きている実感が必要なのだ。


だから、どこかに「感動」は転がっていないかって、

心を動かすことに躍起になっている。

私を含む「努力依存症患者」の多くにはそういう節がある。


でもそれって、ある意味では「不幸」なこと、

目の前に夢中になれることがないってことだから、


何かにつけて予定を詰め込んで、

「予定があること」に充足感を得ている。


なんだか足元が見えていないような気がする。


日常の中にも「喜び」があって「幸せ」があって、

「感動」できるようなことはたくさんあるはずだ。


それを見過ごしてどこか遠いところばかりを見ている。

それってなんだか「虚しいこと」なんじゃないかな。


自分の外にばかり「感動」を探していないでさ。

自分がその「感動」を生み出す主体者になればいい。


人生なんてものはさ。

「主体的」でなければ幸せを感じることなどできない。


「努力していること」自体に「喜び」があるはずなのに、

それでは満足することができずに、その先に何か「感動」を見出そうとする。


目的が「感動」にあるものだから、大したことではなくても大袈裟に褒めたたえて、それを「感動」に仕立て上げる。

別にみんなが喜んでくれればそれでいいんだけどさ。

どこかそこに「違和感」を感じる。


何が幸せなんだろうね。


人にとってはさ。

何が幸せなんだろうね。


結局は「実感」で収まる世界だから、自分で仕立て上げた「感動」に満たされていればそれでいいのかね。


ふとした時に湧き上がる、

そんなナチュラルな「感動」


「感動」にも「天然」と「養殖」があるのかもしれない。

マグロにしたって「養殖」のほうが美味しかったりするらしいから、どちらがいいのかはわからない。


「感動した」「感動した」ってさ。

本人が心からそう思っていればそれでいいのかな。


だけれども、どこかで自分は気が付いている。

その「感動」がつくられたものだってことに、


あとは人それぞれだ。

 

自分を誤魔化しながら生きても良いし、

自分に嘘をつきたくないと息巻いても良い。

バランスとりながらグラグラと揺れている足場を楽しむのも良い。

 

何も否定しない。

誰からも否定されない。

それでも感動があるのであればそれで良い。

 

脳の作り出した高揚感、

それに身を任せて、

ただ時を感じれば良いのだ。