人は「意味」を見出すことによって生きながらえている。
「生きるため」には生きている実感が必要なのだ。
だから、どこかに「感動」は転がっていないかって、
心を動かすことに躍起になっている。
私を含む「努力依存症患者」の多くにはそういう節がある。
でもそれって、ある意味では「不幸」なこと、
目の前に夢中になれることがないってことだから、
何かにつけて予定を詰め込んで、
「予定があること」に充足感を得ている。
なんだか足元が見えていないような気がする。
日常の中にも「喜び」があって「幸せ」があって、
「感動」できるようなことはたくさんあるはずだ。
それを見過ごしてどこか遠いところばかりを見ている。
それってなんだか「虚しいこと」なんじゃないかな。
自分の外にばかり「感動」を探していないでさ。
自分がその「感動」を生み出す主体者になればいい。
人生なんてものはさ。
「主体的」でなければ幸せを感じることなどできない。
「努力していること」自体に「喜び」があるはずなのに、
それでは満足することができずに、その先に何か「感動」を見出そうとする。
目的が「感動」にあるものだから、大したことではなくても大袈裟に褒めたたえて、それを「感動」に仕立て上げる。
別にみんなが喜んでくれればそれでいいんだけどさ。
どこかそこに「違和感」を感じる。
何が幸せなんだろうね。
人にとってはさ。
何が幸せなんだろうね。
結局は「実感」で収まる世界だから、自分で仕立て上げた「感動」に満たされていればそれでいいのかね。
ふとした時に湧き上がる、
そんなナチュラルな「感動」
「感動」にも「天然」と「養殖」があるのかもしれない。
マグロにしたって「養殖」のほうが美味しかったりするらしいから、どちらがいいのかはわからない。
「感動した」「感動した」ってさ。
本人が心からそう思っていればそれでいいのかな。
だけれども、どこかで自分は気が付いている。
その「感動」がつくられたものだってことに、
あとは人それぞれだ。
自分を誤魔化しながら生きても良いし、
自分に嘘をつきたくないと息巻いても良い。
バランスとりながらグラグラと揺れている足場を楽しむのも良い。
何も否定しない。
誰からも否定されない。
それでも感動があるのであればそれで良い。
脳の作り出した高揚感、
それに身を任せて、
ただ時を感じれば良いのだ。