「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

少し落ち着いている

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3月も半ばに入った。

今月は落ち着いている。

4月以降はまた忙しくなることが予想される。

そう考えると、今はゆっくりして英気を養った方が良いのだろう。

 

徐々に暖かくなってきた。

春が来たのだ。

少しずつ、少しずつ、

新しい意識が芽生えていく。

 

私は父になる。

少し前には想像すらしていなかった。

私の人生は劇的に変わっていく。

 

少し遠目から俯瞰したように私を眺めると、

よくここまで来たな、と思う。

 

まだまだ私には経験したいことがたくさんあるのだ。

まだまだ私は生きることに対してポジティブだ。

まだまだ私の胸の内には、希望がある。

 

今は考える余裕がある。

それでも、ポジティブでいられる。

私が幸せだという何よりの証拠。

 

私の人生は続くのだ。

 

映画『ゴジラ-1.0』

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ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズを手掛けた山崎貴監督が満を辞してメガホンを取った意欲作。

 

後輩から「絶対に見た方が良い」と、あまりにも勧められるものだから、遅ればせながら映画館で見た。

アカデミー賞で、アジア映画初となる視覚効果賞を受賞。

私が見た直後の一報に驚いた。

 

庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』は、「日本vsゴジラ」の構図だったのに対して、山崎貴監督は、『人間vsゴジラ』を描きたいと語る。

 

政府からも見放され、自分の大切な人、大切な街を自らの手で守らなければならないということを突きつけられた人々。

極限まで研ぎ澄まされた、純粋な「人間vsゴジラ」を見事に描き切った作品だ。

 

結論から述べると、見て良かった。

この映画は映画館で観るべき作品だと思った。

 

初代ゴジラに対するリスペクトが十分に感じられる、昭和の雰囲気漂う世界観。

安易なハッピーエンドでは終わらない、

「それでも生きていく」と言う強いメッセージの込められた作品だ。

 

そもそもゴジラというキャラクターは、人間が自然を食い物にして私利私欲を貪ることに対するアンチテーゼとして生まれた。

だから、この作品の中では、人類に希望などないのだ。

 

悔いて、悔いて、苦しんで、苦しんで、

その先に見えた一筋の希望。

しかし、それすらも簡単にゴジラに踏み躙られる。

この絶望感が初代ゴジラへのリスペクトだ。

 

洗練された見事な映像。

ゴジラの迫力もさることながら、戦後の東京を忠実に再現し、それを観るも無惨に破壊する様を見せつけられて、そこに希望など生まれようはずがない。

 

繰り返すが、ゴジラは「人類が私利私欲を貪る愚かさ」に対するアンチテーゼなのだ。

そこに希望など存在しない。

 

この作品を見ていると、時を重ねるたびに、心が荒んでいく。

これでもか、というくらいに絶望に叩き落とされる。

 

主人公である神木隆之介くんの演技は見事だ。

途中から感情移入させられる。

彼の痛みを、自らの痛みとして捉えながら、スクリーンを見続けなければならない120分。

それはとても苦しいものだ。

 

落として、落として、落とした先に待ち受けているカタルシス

それが、全てを許してくれるのだ。

 

「生きる」ために、どうしてもしなければならないこと。

今の時代は、そういうものがすっぽりと抜け落ちた時代だ。

自分が自分であるために、やらなければ先の人生を生きることなど到底できない。

昔は、文字通り「命を懸けて」やらなければならないことが無数に存在していたのだろう。

 

「絶対に生きなければならない」

今の時代は、昔と比べて物理的には生きることが簡単になった時代だ。

「生きること」だけを目的として生きることができない時代と言い換えることができるかもしれない。

 

生きるために目的が必要なことは、果たして幸せなことなのだろうか。

どんなに先が見えなかったとしても、今、命が続いていることを喜び、その瞬間をいかに楽しく過ごすのかに注力できることは幸せなのかもしれない。

 

先のことばかり考えて、ほぼ杞憂で終わるような悩みにリソースを奪われながら生きる。

私たちの生活は、果たして幸せだと言えるのだろうか。

 

「生きて、生きて、生き抜く」

 

迫力のあるメッセージが心に突き刺さる。

そんな作品だ。

 

人と比べないと生きられない人

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私はよくブログで「信念は諸刃の剣である」と書いている。

信念を持つことで、自分の生きる道を定めることができる反面、その信念に沿わない対象に対する寛容さを失ってしまう。

 

イスラム原理主義者を称するテロリストがわかりやすい例だ。

彼らは、アラーの名のもとに、他国を侵略し、人を殺すことを正当化する。

 

そこまでは行かなくても、自分の信念を押し倒すために、周りに対して好戦的な人がいる。

彼ら、彼女らは、それをぶつける相手に何を求めているのだろうか。

 

多くの場合、中途半端な議論だ。

その結果、相手を言い負かして自分が正しいことを証明することが目的だ。

 

誰かと比較しないと、自分の存在価値を認めてあげることができない。

そんな「エセ信念」の持ち主。

彼ら、彼女らに取って、信念とは自分が人と比べて優れていると証明するための道具なのだ。

 

本物の「信念」を持っている人は、それを自分の生き方に落とし込むことを目的としている。

だから、それを武器にして誰かと意見を戦わせようとは思わない。

 

「自分が納得していればいい」のだ。

自分が自分に恥じない生き方をしていれば、誰かと比較して一喜一憂したり、誰かと比較することで自分の存在価値を確かめたりなどしない。

 

それが出来ないから、自分の中で自分の価値を認めてあげるための軸が存在しないから、人より優れていることを仕切りに確かめたがる。

 

その作業に必死な姿を見ると哀れになる。

そういう時期があっても良い。

しかし、どこかで卒業しなければならないのではないだろうか。

いい大人が、いつまで経っても人と比べることに命をかけているのは見苦しいのだ。

「歩いている時」に会話が捗る理由

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不思議なことだが、対面で向かい合って話をしている時よりも、並走して歩きながら話した方が会話が捗る。

 

普通に考えたら、向き合っている時の方が「話をする体制」が整っているはずだ。

しかし、私の場合はそうではない。

 

同僚と食事に行く時もそうだし、思えば婚活をしていたときに女性との会話を思い出してもそうだった。

 

向き合うとき遅れしてしまうのだろうか。

それとも、歩いている時のリズムが会話を弾ませるのだろうか。

実際のところはわからないが、自分なりに考察してみた。

 

人は、緊張したときにそわそわする。

そのそわそわする理由は、緊張を緩和させるためなのだろう。

体を動かしていないと、ネガティブな思考ばかりが浮かぶ。

だから気を紛らわせるために、人は体を動かしてそわそわするのだ。

 

そのそわそわ状態に近いのが、向き合っている時よりも歩いているときだ。

だから自然とそわそわ状態に近くなることで、緊張を緩和させて、会話が捗るのかもしれない。

 

「やることがない」と、人はネガティブな感情に支配されがちだ。

ネガティブな感情に支配される期間が長くなりすぎると、やがて心も体も機能を停止してしまう。

 

マグロやカツオのように、泳ぎを止めたら死んでしまう。

もしかしたら人間の感情も、それに近い構造なのかもしれない。

 

年と共に心が動かなくなる。

心が動かなくなっても、手足は動くから、なんとか手足を動かすことによって、心を動かしていく。

 

心が死んでしまわないように、手足を動かして、口を動かして、必死に自分の存在を証明しようとする。

だから、手足を動かしている時ほど、心も動き出し、自然と会話が捗るのかもしれない。

 

忙しくしている時ほど、案外ポジティブに生きることができている。

使わない機能から衰えていくのだ。

衰えさせないために、手も足も口も心も、たくさん使いながら生きていきたい。

熱意を持ち続けられる人

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特定のものに傾けた熱意は、傾けた年数が長くなればなるほどに冷めていく。

それが一般的だ。

 

私のブログも6年ほど続けてきて、今は始めた時ほど熱意を傾けられているとは思わない。

熱意はどんどん冷めていくのだ。

 

しかし、特定のものに対して熱意を傾け続けている人がいる。

私とその人との違いはどこにあるのだろうか。

少し考えてみたい。

 

私は、もともと熱意を表に出すタイプではない。

熱意を傾けるものがあっても、必要がなければ動機や活動内容を他人と共有することは少ない。

 

「私が好きでやっていること」

それを聞かれもしないのに、自分から話すことはあまりないのだ。

このブログにしても、私が好きでやっていることだから、特にリアルで繋がっている誰にも話していないし話す気もない。

 

ゲームにしても読書にしてもそうだ。

私が日常的にゲームをしたり、読書をしたりしたことを周りと共有する機会は少ない。

話の流れで開示することはあるが、積極的に共有したいという意識はない。

 

かたや、熱意を持ち続けられる人の行動規範はどうか。

私の知る限り、そういう人は、自分のプライベートな行いを周りと積極的に共有しようとする。

 

それを行うことで、常に周りから話した内容に対するフィードバックを受け取ることができると共に、会うたびに話したことに対する進捗を確認される。

それ自体が継続する動機となり、熱意を持ち続けることができるのかもしれない。

 

自分1人で続けていることに、モチベーションを保ち続けることは難しい。

人は環境の変化に伴い、いろいろなことを取捨選択しながら生きている。

 

モチベーションが低下すれば、当然そのことの優先順位は低下する。

優先順位が低下すれば必然的に時間をかけなくなる。

そうやって、どんなに長く継続してきたことも、環境の変化により人生から淘汰されていくのだ。

 

熱意を持ち続けられる人は、自ら環境を熱意を持ち続けられるものに変えているのかもしれない。

ある種のフィードバックによる強制力が働けば、自然とモチベーションは保たれる。

そういうことなのかもしれない。

 

私がブログを続けることのできている理由も、読者の方からのフィードバックがあるからなのだろう。

リアルではモチベーションを保つ術がなかったとしても、オンライン上でモチベーションを保つための仕組みができているのかもしれない。

 

だから私は、熱意を薄めながらも、こうして毎日ブログを書き続けているのだ。

かく言う私も、皆さんのおかげで、熱意を持ち続けられる人になっているのかもしれない。

 

海の見える朝

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心が澄み渡る。

気持ちをリセットできる。

いつもとは違う朝に心が躍る。

 

私は今、いつもとは違う場所に身を置いて、

心を少し躍らせている。

 

心は日常的に動かさなければならない。

ネガティブな方向ばかりに心を動かしていると、

そっちの方向にしか動かなくなる。

ポジティブな方向にも心を動かしてやる必要があるのだ。

 

心だって動かさなければ固まっていく。

上下左右と柔軟に動かしてやる必要がある。

 

歳をとるに連れて、

心を動かすことに恐れが生じる。

行動した結果を予測できてしまうから。

 

多くの場合、

新しく挑戦したことはうまくいかない。

だから、新しいことに挑戦することを躊躇う。

 

でも、それを打ち破って、

いつまでも新しいことを経験して、

心を動かし続けること。

 

人生を謳歌するためには、

それが必要なのだ。

 

私はまだまだ私の人生を諦めたくはない。

まだまだたくさんのことを経験して、

たくさん心を動かして、

生きていることを実感したい。

 

レミオロメン『3月9日』

 

 

 

 

 

この曲も私のブログでは何度も使い古した。

色褪せない名曲。

「この日」になるといつも思い出す。

 

この曲が流行っていた当時の私は、どことなく初恋の人の面影のある堀北真希さんにお熱だった。

携帯の待受を堀北真希さんにしていた時期があるほどだ。

 

今や山本耕史さんと結婚して芸能界を引退。

その姿を見ることは、もうないのかもしれない。

 

瞳をとじればあなたが、

瞼の裏にいるようで、

どれほど強くなれたでしょう。

あなたにとって私もそうでありたい。

 

あの時の私は若かった。

青春の象徴のように思えて、

胸の奥底から忘れていた感情が溢れ出してくる。

 

そんな曲だ。

 

 

レミオロメン『3月9日』