私はよくブログで「信念は諸刃の剣である」と書いている。
信念を持つことで、自分の生きる道を定めることができる反面、その信念に沿わない対象に対する寛容さを失ってしまう。
彼らは、アラーの名のもとに、他国を侵略し、人を殺すことを正当化する。
そこまでは行かなくても、自分の信念を押し倒すために、周りに対して好戦的な人がいる。
彼ら、彼女らは、それをぶつける相手に何を求めているのだろうか。
多くの場合、中途半端な議論だ。
その結果、相手を言い負かして自分が正しいことを証明することが目的だ。
誰かと比較しないと、自分の存在価値を認めてあげることができない。
そんな「エセ信念」の持ち主。
彼ら、彼女らに取って、信念とは自分が人と比べて優れていると証明するための道具なのだ。
本物の「信念」を持っている人は、それを自分の生き方に落とし込むことを目的としている。
だから、それを武器にして誰かと意見を戦わせようとは思わない。
「自分が納得していればいい」のだ。
自分が自分に恥じない生き方をしていれば、誰かと比較して一喜一憂したり、誰かと比較することで自分の存在価値を確かめたりなどしない。
それが出来ないから、自分の中で自分の価値を認めてあげるための軸が存在しないから、人より優れていることを仕切りに確かめたがる。
その作業に必死な姿を見ると哀れになる。
そういう時期があっても良い。
しかし、どこかで卒業しなければならないのではないだろうか。
いい大人が、いつまで経っても人と比べることに命をかけているのは見苦しいのだ。