いわゆるメタ認知と呼ばれるもの。
自分のことを客観的に見ることで、
他人から自分がどう見えているのかを認識する。
「恋は盲目」と言われるように、人は願望と感情と過去の経験により、都合の良い事実とは異なる認識を自らの中に植え付ける生き物なのだ。
その結果として、高層マンションの近くで、おじさんが若い女性を刺し殺してしまうような悲劇につながることもある。
自分で自分のことを評価していても、
他人から見て自分が評価されていないということはある。
人は基本的に自分のことを過大評価しがちだ。
ある調査によると、ペーパーテストを行って結果を開示せず、平均点を超えているかと聞いた場合、「平均点を超えている」と答えた人は、実際に行ったテストの平均点を超えている人よりも多いらしい。
自己評価と他 客観的評価に乖離がある場合、メタ認知をしっかりとできていないということになる。
自分は自分のことを誰よりも知っているけれど、誰よりも他人から見た自分を知らないのかもしれない。
だから、意識して他人から見た自分のことを認識する必要があるのだ。
「事実」と「主観」を切り分ける。
人は、これまでの経験から物事を予測する。
過去の経験では「こう」だったから、おそらく今回も「こう」だろうと予測する。
それが「主観」だ。
しかし、実際に今回のケースでは、過去の経験とは全く異なるケースということもある。
過去の経験に引きずられて、偏ったものの見方をすることで、誤った選択をしてしまわないためには、「事実」をもとに考える必要があるのだ。
過去の経験は、可能性を探るための一つの要素でしかない。
それを根拠として物事を決めつけると、事実とは異なる決断をしてしまう可能性が高まるのだ。
自分のことを客観的に見る力は、事実と主観を切り分ける作業の中で育まれる。
経験だけに頼ってはいけない。
事実を元にした仮説を立てて、それを検証した結果、それが正しいと確証を得た上で決断することが大事だ。
時間のかかる作業に身を委ねることで、自分を見つめ直す時間を作ることができる。
重要な決断であればあるほど、急いで決断を下さないことが大事だ。
自分なんか大したことはない。
それを認識した上で、自分の可能性を諦めることはしない。
私たちは、そうやって前を向いて生きていくしかないのかもしれない。
不安定な足場で上手にバランスをとりながら、
自分のことを過大評価せず、他人の評価に流されすぎず、そうやって生きていくしかないのかもしれない。
時には「どっちつかず」が正解となることもあるのだ。