「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

死がリアリティを失っている

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「死」よりも社会的な立場の方が大事、

「死」よりも周りからどう見られるかのほうが大事、


「死」を実感する機会が少ないから、

だから課題を転嫁して些末なことばかりに囚われる。


「どうだっていい」


周りからどう思われるかなんて、

「明日死ぬ」って言われたらどうだっていいはずでしょ。


尊厳ある死、

それには準備が必要、


長い間、人生を形作って、

少しずつ「死」を受け入れていって、

ようやく辿り着くもの、


急に明日死ぬことになったって、

そこからじゃ手遅れなのだ。


余命の宣告を受けてから、

がむしゃらに生きる人、


「私はやりたいことを全部やってから死ねるから幸せ」

若くして命を失ったある人の言葉、


「立場」が「死」を遠ざける。

手に入れたものがたくさんあるほどに、

それを手放すことに痛みを伴うから、


「失うものがたくさんある」


何も手に入らない人生は虚しいけれども、

たくさんのものを手に入れても、

それを手放すことに執着しては痛みは増すばかり、


「死」を身近に感じる作業が必要、

少しずつ手放す準備をするために、


「命」は大切なもの、

そうやって教えられて生きてきた。

多くの人はそうだろう。


それは疑いようもない事実だけれども、

自分の命に対して過保護になってしまうと、

些末なことにとらわれて、

手放すことを恐れるようになって、

生きることも死ぬこともできなくなってしまう。

ただただ時間を無為に費やすばかり、


「死は身近に存在するもの」


その事実から目を背けてはいけない。

それはこの世でいちばん大変な作業かもしれないけれど、

いつかは向き合わないといけないもの、


無機質に覆われたこの世界の中では、

「死」は物語の中での出来事、


どこか遠くにあって、

少しは色彩を感じられるかもしれないけれど、

モノクロかせいぜいセピア色、

どこか色あせて見えるもの、


自分を守る手段を探すことばかりに躍起になって、

「生」でも「死」でもない何か別のものにしがみついて、


「何のために生きているの?」


その問いから目を背けて、

何となく毎日を過ごして、


課題が見つかったら、

悩み苦しみながらも、

どこか嬉しそう。


「人は退屈には耐えられない」


退屈が続くよりも、

辛かったり苦しかったりするほうが楽なのだ。


でもそれって、

切迫した「死」と向き合っている人にとったら、

鼻で笑われてしまう。


いいや、

鼻で笑う価値すらないだろう。


あまりにも、

「死」がリアリティを失ったものだから、

ある人は無意識で危機感を感じて、

精神作用としての「死」を作り出す。


そして自分の作り上げた仮想の「死」に夢中になる。


生きがいがうまく見つからないからって、

自分の殻に逃げ込んで、

「私はこんなに苦しいの」って自慰に耽る。


そんなことばかりしていないで、

他に夢中になれることを探したほうがよっぽどいいのに、


「生きる」ってなんだろう。


成長して、

大人になって、

結婚して、

子供ができて、

子供が大人になって、

結婚して、

また子供ができて、


そうやってライフステージを進めることなのかな。


「生きる」って、

「死」と向き合うこと、


そう考えると、

些末なことはどうでも良くなってくる。


でもそれって、

いろいろな課題と向き合いたくないから、

「死」というものに転嫁しているだけなのかな。


「死」と「生活の課題」

どっちが先かわからなくなる。


心に指標を持って、

その心に従って、

無我夢中で「生きる」ことに没頭したい。


そのためには「死」を忘れてはならない。

「生」と「死」は表裏一体、


こんなに体がおかしいと、

いつどうなるのかもわからないな。


まだまだ、

私の捉える「死」は、

モノクロで熱を持っていないけれども、


向き合う覚悟を持つことで、

少しずつ鮮明になるのかな。