「死」よりも社会的な立場の方が大事、
「死」よりも周りからどう見られるかのほうが大事、
「死」を実感する機会が少ないから、
だから課題を転嫁して些末なことばかりに囚われる。
「どうだっていい」
周りからどう思われるかなんて、
「明日死ぬ」って言われたらどうだっていいはずでしょ。
尊厳ある死、
それには準備が必要、
長い間、人生を形作って、
少しずつ「死」を受け入れていって、
ようやく辿り着くもの、
急に明日死ぬことになったって、
そこからじゃ手遅れなのだ。
余命の宣告を受けてから、
がむしゃらに生きる人、
「私はやりたいことを全部やってから死ねるから幸せ」
若くして命を失ったある人の言葉、
「立場」が「死」を遠ざける。
手に入れたものがたくさんあるほどに、
それを手放すことに痛みを伴うから、
「失うものがたくさんある」
何も手に入らない人生は虚しいけれども、
たくさんのものを手に入れても、
それを手放すことに執着しては痛みは増すばかり、
「死」を身近に感じる作業が必要、
少しずつ手放す準備をするために、
「命」は大切なもの、
そうやって教えられて生きてきた。
多くの人はそうだろう。
それは疑いようもない事実だけれども、
自分の命に対して過保護になってしまうと、
些末なことにとらわれて、
手放すことを恐れるようになって、
生きることも死ぬこともできなくなってしまう。
ただただ時間を無為に費やすばかり、
「死は身近に存在するもの」
その事実から目を背けてはいけない。
それはこの世でいちばん大変な作業かもしれないけれど、
いつかは向き合わないといけないもの、
無機質に覆われたこの世界の中では、
「死」は物語の中での出来事、
どこか遠くにあって、
少しは色彩を感じられるかもしれないけれど、
モノクロかせいぜいセピア色、
どこか色あせて見えるもの、
自分を守る手段を探すことばかりに躍起になって、
「生」でも「死」でもない何か別のものにしがみついて、
「何のために生きているの?」
その問いから目を背けて、
何となく毎日を過ごして、
課題が見つかったら、
悩み苦しみながらも、
どこか嬉しそう。
「人は退屈には耐えられない」
退屈が続くよりも、
辛かったり苦しかったりするほうが楽なのだ。
でもそれって、
切迫した「死」と向き合っている人にとったら、
鼻で笑われてしまう。
いいや、
鼻で笑う価値すらないだろう。
あまりにも、
「死」がリアリティを失ったものだから、
ある人は無意識で危機感を感じて、
精神作用としての「死」を作り出す。
そして自分の作り上げた仮想の「死」に夢中になる。
生きがいがうまく見つからないからって、
自分の殻に逃げ込んで、
「私はこんなに苦しいの」って自慰に耽る。
そんなことばかりしていないで、
他に夢中になれることを探したほうがよっぽどいいのに、
「生きる」ってなんだろう。
成長して、
大人になって、
結婚して、
子供ができて、
子供が大人になって、
結婚して、
また子供ができて、
そうやってライフステージを進めることなのかな。
「生きる」って、
「死」と向き合うこと、
そう考えると、
些末なことはどうでも良くなってくる。
でもそれって、
いろいろな課題と向き合いたくないから、
「死」というものに転嫁しているだけなのかな。
「死」と「生活の課題」
どっちが先かわからなくなる。
心に指標を持って、
その心に従って、
無我夢中で「生きる」ことに没頭したい。
そのためには「死」を忘れてはならない。
「生」と「死」は表裏一体、
こんなに体がおかしいと、
いつどうなるのかもわからないな。
まだまだ、
私の捉える「死」は、
モノクロで熱を持っていないけれども、
向き合う覚悟を持つことで、
少しずつ鮮明になるのかな。