ほぼ全ての生き物は、
生きるために必要なことの他には興味がないのだろう。
本能に従って、欲望に従って、
それに逆らうことなど考えようともせずに「生」を全うする。
「人」だけが違うのだ。
「理性」を手に入れたばかりに、
周りとの関係性を意識して、個としての欲望よりも先立つ規則に従って生きている。
「個」としての本能よりも「コミュニティ」に対する貢献や、そこで波風立たせずに生きることを優先させて、ある意味では、私たちは「自分よりも大きなもの」に縛られて生きているのかもしれない。
その結果として、
「今を生きること」を忘れてしまい、
先回りして、自分が損をしないように「課題」を与え、それをクリアすることに喜びを感じて生きている。
「今の楽しさ」よりも「先のこと」ばかり。
自分でも理由のわからない「不安」にばかり怯えているうちに、
その「不安」を遠ざけることが人生の喜びとなってしまった。
「なんのために生きるんだろうね?」
「ただ生きるために生きているんだね」
人は「社会」を介して「安定した生活」を手に入れる代償として、「生きる目的」を曖昧にしてしまったのかもしれない。
だから、自らに課題を与え続けることで、自らの生きる目的を見出すことに躍起になっているのだ。
側から見たら「そこまで頑張る必要があるの?」と思うようなことに真剣に取り組む人がいる。
だけれども、その人からすれば、それがその時点での「生きる意味」なのだ。
家族や仕事、趣味や信仰など、
何かに「自らの人生」を転嫁して、
それを「生きる意味」とすることに躍起になる。
誰もそれを馬鹿にすることなどできないのかもしれない。
「意味がなければ生きられない」
そんな生き物はおそらく「人」以外には存在しないだろう。
私たちは、どこへと向かうのだろうか。
私たちは、何を目指しているのだろうか。
その答えを求めて生きることが目的なのだろうか。
あまりドツボにハマると、生きること自体に矛盾を感じてしまう。
だから、難しいことは考えずに、「今この時」の感情がどこへ向かっているのか、
そうした「本能」に身を任せて生きることを意識する必要があるのかもしれない。
先のことばかりを考えて不安になる時間はもったいない。
漠然とした不安に怯えて暮らすなんて、時間の無駄遣いも甚だしい。
「メメントモリ」
死を身近に感じながら、生きる時間の大切さを噛み締めて生きる人ほど、時間を無駄には使わないものだ。
ミヒャエル・エンデ『モモ』
児童文学に分類されるが、大事な示唆を与えてくれる作品だ。
自らの人生に与えられた時間は限られている。
そのことに気がついて生きている人は少ない。
だから、人々は時間泥棒に時間を盗まれる隙を与えてしまっている。
私たちは、どのように自らの時間を使うべきなのか。
「命の尊さ」ばかりがクローズアップされる時代において「命の使い方」をもう少し掘り下げる必要があるのではないだろうか。
「生きる意味」を求めて、自らに課題を与え続ける珍しい生き物。
「生きる意味」を求めるあまり、感情を硬直させてしまっては元も子もない。
「自分らしい人生の使い方」
自らに与える課題は、そこにコミットさせるべきなのだろう。
ガムシャラに生きる時期は必要だ。
しかし、それだけに囚われて浪費した時間は戻ってこない。
「今この時」から、人は変わることができるのだ。
どのように生きるのかは、私たち次第だ。