「言語」の先にあるもの

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私に見える世界は、

網膜を通して移す像、

私の脳がそれをイメージしたものだ。


私から見える「赤い」と、

あなたに見える「赤い」は、

まったくの別物かもしれない。


だけれども、

赤いものを見て、

共に「赤い」と判断できるということは、

「経験」を共有しているから、


トマトは赤いもの、

イチゴは赤いもの、

血の色は赤い。


生きる過程でそれを学習するのだ。


私にしか見えない世界、

脳が作り出したイメージ、

私が作り出して他の誰にも見えない。

だけれどもそれを誰かと共有できる。


「言葉」というものは、

そのために生まれてきた。


「伝える手段」


言葉のほかにも色々とある。


身振り手振りや、

文章に絵文字や顔文字、


音楽や絵画に映画、

芸術だって、

それに当たるだろう。


最もシンプルかつ、

手軽に使える「伝える手段」

それが言葉だ。


文化が違えば言語も違う。

常識も価値観も違う。

それは同じ経験を共有していないから、


だけれども世界の距離は近づいている。

テクノロジーが経験の共有を進めるのだ。


世界中の出来事は逐一共有されて、

言語の差も埋められつつある。

 

私たちは世界中が新型コロナウイルスに苦しめられていることを知っているし、

少し調べれば各国の状況を誰もが詳細に把握できる。

それってすごいこと、


日本ではマイノリティでも、

他の場所では違うかもしれない。

そういうことも少なくないだろう。

 

そうやって文化を越えて、

「経験」を共有できる、

いくつものコミュニティが出来上がる。


「経験」は言語の壁を越えて「共感」を生む。

そうやって人と人とはつながるのだ。

 

これから先の未来って、

「経験」がものをいうんじゃないかな。

 

どのような経験をして、

何を感じて、誰と共感できるのか。

そして何を掲げて生きているのか。

 

言語の壁はない。


隣にいる人とは分かり合えなくても、

地球の裏側にいる人とは分かり合える。

そういうことだってあるだろう。


多くの経験をして、

たくさん心を震わせて、

たくさんの共感に触れて、

そうしてつながりを広げていく。


だから私はまだまだ色々な経験をしたい。

 

傷ついて打ちのめされて、

立ち上がることを諦めてしまいそうになる。

そんなことばかりだけれども、

まだまだ経験が足りない。


心を震わせた数だけ、

世界はクリアに見えてくる。


まだまだ私には、

世界が曇って見えているのだ。