「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「多様性」という言葉の持つ強制力に気をつけないと

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ダイバーシティ」という言葉が叫ばれて久しい。


いまや「多様性」という言葉が市民権を持つどころか、

ある種の「強制力」を働かせるところまで来ている。


「人と違ってもいい」


物心ついたころから始まる、

そんなアイデンティティ確立のための作業、


それがひと段落すると、

人は「全」に適応することを学び始める。


自分中心だった世界から、

世界の一員へと変わっていく。


「個」から「全」へ、


そうやって「境界」を作り出して、

互いが「違い」を認識する中で、

どこかに「居場所」を見つけていく。


そうやって初めて、

「これでいいんだ」って、

「行動規範」が形作られる。


もちろん個人差はあるけれど、

「人格形成」というものは、

概ねそうやって進んでいくのだろう。


だけれども「多様性」


その言葉の持つ力が大きくなりすぎると、

せっかく育ててきた「全」へのコミットが薄れてしまう。


「思いやり」だとか「協調性」


ある意味では欲望を押し殺して獲得する、

「大人」になるために必要な要素たち、


一歩間違えると「多様性」という言葉に、

蹴散らされてしまうんじゃないかな


自分は「多様性」を認めるから、

周りも「自分」を認めろってさ。


そんなのはただのエゴだ。


「多様性を認める」ということは、

誰かに強要するものではない。


「心を耕した先」にあるもの、


「利害関係の先」でもなく、

「興味本位の先」でもなく、

「心を耕した先」にあるもの、


自らが「自分の存在価値」を信じてあげられれば、

自然と他人に対して慈悲が生まれる。


「マイノリティ」だからとか、

「社会的弱者」だからとか、

「かわいそう」だからとかではなく、

誰に対しても自然と慈悲が湧いてくる。


「多様性」「多様性」ってさ。


声高に叫んでいる人ほど、

誰かを差別しているんじゃないのかな。


そこには「利権」が絡んでいるのかもしれないし、

そこには「名声」が絡んでいるのかもしれない。


まともな感覚を持っていて、

年と共に精神的に成熟していけば、

自然とその人の中で「差別」はなくなっていくはず、


いくら「多様性を認めよう」って働きかけたところでさ。

そこに「きな臭いもの」が隠れていたら、

信用はがた落ちしてしまう。


「多様性」

誰のためにそれを認めて欲しいの?


自分のため?

マイノリティのため?

その気持ちの出所はどこにあるの?


そういう主張をするのは良いけれども、

その辺りをはっきりさせないといけないんじゃないのかな。


人は「居場所」がないと不安だからさ。


色んなものを「ツギハギ」して、

「自分らしさ」というものを形作ろうとする。


「個」から「全」への「過剰適応」


そうやって誰かに自分の人生を委ねるのだ。


目的もわからないまま、

「心の風向き」も読まないで、

どんどん先に進んでしまうと、

気が付くと取り返しのつかないところまで行ってしまう。


そうなってしまったらさ。


それまでに費やした時間と労力を否定したくないからってさ。

「心にもないこと」を平気で主張するようになる。


もはや「誰の人生」を生きているのかもわからない。


「多様性」に限らずだけれども、

「聞こえの良いこと」ばかりに群がる若者が増えたように思う。


気をつけなければならない。


大人ってものはさ。

そんなにきれいなものではないよ。


「おかしい」と思ったら、

いつでも逃げ出す準備だけはしておかないと、


最後は自己責任なのだ。