ここ最近「はてな」を賑わせている「弱者男性論」というもの、
詳しく調べていないけれども、異性を獲得できない「弱者男性」がファミニストたちに「攻撃しないで欲しい」と懇願している。
そんな構造を揶揄して打ち立てられた理論のようだ。
私はどう考えても「弱者男性」の部類に入るだろう。
女性たちから「不安を解消するための道具」として「優しさ」を搾取されてきた。
加えて「加害者性としての男性性」に思い悩む「誠実な男」だという記事を書いたことがある。
何とも厄介な性質を抱えた男だ。
そんな私が「お気持ち」と題して今回の祭りに参加してみる。
まず「ジェンダー」についてはさんざん過去に書いてきたものだから私の結論は出ている。
「男チーム」と「女チーム」というチーム対抗戦に持ち込むから厄介なことになる。
そうではなく、突き詰めてみるとあくまでも嫌いなのは個人だ。
傷つけられた経験があって、それを元手にして「相手チーム」への攻撃の糧にしているはず、
「嫌いな男」「嫌いな女」ではなくて「嫌いなあいつ」もしくは「あいつら」なのだ。
冷静に考えると「男全員」「女全員」を嫌っているわけではないはずだ。
人は一般的に長い時間をかけたものに対して愛着が湧くものだから、
自分が長いこと所属してきた「男チーム」「女チーム」の一員として義憤を燃やし、
「所属チームの一員としての振る舞い」に功を求める。
そうやって「嫌悪感」を一般化しているうちに、そこが「居場所」となり「嫌悪」は相手チーム全体へと広がっていく。
要は「チーム対抗戦」に持ち込むことが諸悪の根源であると結論付けた。
そもそも「多様性」
これが下手に市民権を獲得したからおかしなことになった。
もちろん「基本的人権」は尊重されるべきだけれども、「マイノリティ」として生まれてきたのならば、おそらくその自覚が芽生えたときに、多くの葛藤を経て今この場にたどり着いているはずだ。
「LGBT」だとしたら、自らのアイデンティティ確立のために葛藤し、ヘテロとして生きる道も模索したことだろう。
その過程を経たうえで「本当の自分」と「偽りの自分」
それを天秤にかけて傾いた方を選択しているはずだ。
「自らの意思で選択した人生」
「社会がおかしい」だなんて主張は当事者からしたら滑稽に映るだろう。
そういうものを「飯のタネ」にしようとする団体や政治利用しようとする政治家が焚き付けているだけではないか。
当事者たちはそれほど弱くはない。
むしろ「いばらの道を自分で選択している分」だけ、何も考えずに欲望のままに生きている「マジョリティ」よりも強いんじゃないかな。
話が逸れてきたな。
このままだと「多様性」について論じる記事になってしまう。
話を戻そう。
さて、弱者男性としての私、
長年の読者の方ならばその「こじらせぶり」をご存じだと思う。
少し前に『獣になれない私たち』というドラマがあった。
ドラマの中ではガッキーと松田龍平が体を重ねてしまうけれども、私のこれまでの異性関係はこの「獣になれない」という一言に尽きる。
「誠実さ」を盾にして紳士気取って、自分の気持ちの出所に思いを馳せているうちに、お相手は気持ちが冷めて別のルートへと進んでいく。
意を決して私がお誘いする頃にはもう手遅れなのだ。
一人だけ存在する元カノを「不誠実さ」で傷つけてしまったとの葛藤から、妙に「交際」に対するハードルを上げてしまい、結局一度も「行為」を経験することなく今に至る。
30年以上も経験なく生き続けているという、
おそらく「人間」のみならず全生物の中でもトップクラスに「つがいになる」能力の低いオスと言えるだろう。
まさに「弱者男性」である。
「ジェンダー」に対する私の結論は冒頭に述べた通り、「チーム対抗戦に持ち込まない」というもの、
そして私がどれだけ「弱者男性」に該当するかということは前述の通りだ。
ここからが「お気持ち」の部分になる。
率直に述べると「人のことばかり気にしないで自分の人生を生きたら?」と思う。
自分の自尊心がボロボロだからってさ。
異性から傷つけられて立ち直れないからってさ。
「相手チーム」を乏しめることで相対的に「自分の価値」を上げようとする。
そんな「下の下の自尊心の満たし方」に終始するくらいならさ。
個としての自分を認めてあげること、
具体的にいえば「自分を嫌いになるようなことをしないこと」
時間はかかるかもしれないけどさ。
時間をかけた上に結果は出ないかもしれないけどさ。
傷ついた自尊心を癒すためには、
そこに身を委ねるしかないんじゃないのかな。
しばらくブログに記事を上げ続けて、はてなブックマークでバズっては叩かれてたりして、ジェンダー論争の渦中に身を投じていた時期もあった。
だけれども、結局それぞれの「立場」あって「痛み」があって、人は「経験を信仰する生き物」だから教義の上で相容れないものがあって、「チーム」の権利を主張するばかりで終わってしまう。
そんな構図に気がついた。
あなたは「チームの構成員」ではなくて「あなたという個人」でしょ。
そこを履き違えてしまうからおかしなことになる。
どれだけ「チーム」に貢献したところで「チーム」があなたの人生の責任を取ってくれるわけではない。
結局、人生は自己責任なのだ。
だからあなたを「幸せにできる人」はあなたしかいない。
どんなに「素敵な伴侶」に恵まれたところで、あなたの目が曇っていたら「素敵な伴侶」には見えない。
「幸せになれる人」は誰と一緒になっても幸せになれる。
そういうことを言われるけれど、それは一つの真理なのかもしれない。
もちろん度し難い相手と無理して「別れるな」というつもりはないし、別れたからと言って「幸せになれない人」だというつもりもない。
だけれども、手放してもいいんじゃないのかな。
そろそろ「ジェンダー」にこだわり続ける「私」を手放してもいいんじゃないのかな。
少し書きだしただけでこんなに文章が続くのだから、偉そうに書いている私が「ジェンダー」を手放しているのかと言えば怪しいところだけれども、
まあ、興味のあるうちは興味のあることを書いていればいい。
だけれどもいくらそれを続けたところで「満たされない」のであれば、やり方を変える必要があるんじゃないのかな。
時間は有限だ。
いつまでも停滞していたらもったいない。
「手放すこと」で先に進めるのであれば、「こんなに楽なことはない」とは思わないだろうか。
「手放す」
それにも時間はかかるけれども、相手チームを攻撃することに疲れ切ってしまったら、そっちの方向に舵を切ってみてはいかがだろうか。