2年ほど前までは「婚活」にお熱だった私、
もはやブログのメインコンテンツと化して状況を綴っていた。
振り返ると、その頃が一番ブログが盛り上がっていたように思う。
ブログのタイトルが変わらないのだから、
結果はお察しの通り、
結局17人ほどとデートを重ねたけれど、
その誰とも関係が先に進むことはなかった。
私の方が相手のお眼鏡に敵わなかった割合の方が多いだろうけれども、
そうではない相手もいた。
「とりあえず」というところに身を預けられない私の自意識、
そんな厄介な性質が浮き彫りになった機会だったと切に感じている。
何度か記事に書いているけれど、
漫画『恋と嘘』
実は初期の頃に少し読んでいただけなので最近の展開を知らない。
舞台設定が面白く印象に残っている。
少子化に悩む日本政府、
全国民の遺伝子パターンを解析して、最適な男女のカップルを導き出す。
妙齢になると「赤紙」のようなものが送られてきて最適な相手をあてがわれる。
そこからの進め方も政府が手取り足取り指導して「つがい」が出来上がる。
遺伝子的に惹かれあう相手だから当然相性もいいのだ。
「心が求める相手」と「遺伝子が惹かれあう相手」
その狭間で揺れる若き男女のストーリー、
おそらく今でも大筋は変わらないだろう。
「もうこれでいい」
というよりも「こっちのほうがいい」
女性関係で打ちのめされるたびに、
私は何度そう思ったかわからない。
上手くいかない私が「自由恋愛」に対して、
かなり独善的なバイアスをかけていることは認めよう。
今は「多様性」が叫ばれる時代で、
「性的マイノリティ」に対する配慮も一般化されてきた。
「社会要請」とは真逆の主張だけれども、
「自由恋愛」って本当に必要なの?
「利己的でなければ遺伝子を残せていない」
その主張に沿って考えると「恋愛の目的」は遺伝子を残すこと、
「人間の本能」にはそういったメカニズムが組み込まれているのだ。
それならば科学の発展を活かして、
遺伝子的に最適な組み合わせで結ばれればいい。
そう考えるのはおかしなことだろうか。
そもそも世界的に見ても「結婚」というものは政略的な意味合いが強かった。
「家を守るため」妙齢を過ぎても相手がいない場合は、周りがあれこれと世話を焼いて相手をあてがう。
そっちの方が主流だったのだ。
「自由恋愛」が当たり前になったのはつい最近のこと、
「結婚しない自由」というのも確かにあるのだろうけれど、どんなに強がったとしても、どこか欠落感を感じながら生きることになる。
そして、そこに適応できない遺伝子は淘汰されていく。
それは確かな事実なのだ。
そして私は淘汰される側だ。
「自分の人生に責任を持つこと」
人類は時代と共に「人権」という言葉を拡大させてきた。
その中の一つに「自由恋愛」というものも含まれるのだろう。
だけれども私にとっての「恋愛」は、あまりにも「天敵」なのだ。
時を重ねれば重ねるほどに、過去に逃してきたチャンスへの慕情は強まり、
自らに課すハードルは上がっていく。
最近では「もう結婚できない人生なのかもしれない」って、
友人に対してもそう話すようになってしまった。
それも仕方がないか。
日本全体が人口減少に歯止めがかからないのだ。
「自由恋愛」は必要ないってさ。
そうやって論理をこねくり回すことで何とか自尊心を保っているのだ。
そうやって外的要因のせいにして、
とりあえずは自分を慰めることにしよう。
今はきっとそういう時期なのだ。