そこかしこからため息が聞こえてくる。
必要最低限の会話しかなく画面に夢中になっている。
常に時間に追われながら「作業」をこなしている。
そういう環境では新たな発想は生まれてこないのに、
ビジネスモデルは変わることを求められる。
でも、これ以上忙しくする余裕はないから誰も手を挙げない。
そうやって主体性を失って、
どんどん仕事が楽しくなくなってくるのだ。
少し前に、品川駅に掲示された広告、
「今日の仕事は楽しみですか?」が話題になったけれど、
多くの人は仕事を「楽しい」とは思っていないのだろう。
だから批判が集まって広告はすぐに掲示を辞めることとなった。
だけれども、少なくとも言えることは、
この広告のアイデアを出した人は仕事に楽しみを見出しているということ、
そうでなければこの発想は出てこない。
「辛いこともあるけれど、楽しいこともある」
そう思って生きている人もいるということだ。
では、その差はどこにあるのか。
冒頭でも触れたように「主体性」の有無だと私は考える。
取り組んでいるのか。
それとも、やらされているのか。
その差は大きい。
時間に追われるようになると、
どうしたって「主体性」は失われていく。
ギリギリの人員で回し、属人化を進めていって、
労働時間は制限されながらも成果は求められる。
社会が働き改革を進めていった結果、
そういう状況に追い込まれているビジネスマンは多いのではないだろうか。
「仕事の時間」は「我慢する時間」
大変でも愛想を振りまかなければならないし、
いつでも大人であることを求められる。
付け替えるペルソナの数は増える一方で、
本来の自分がどういう顔をしていたのかすらわからなくなってくる。
加えて、人とのかかわりは画面越しになり、
帰属意識は薄れていく。
「労働で成果を上げることだけが人生の価値ではない」
そういう逃げ道を用意しては、自由な時間はスマホゲームで結局は「成果をあげている」という快楽に溺れて、現実逃避に勤しむ。
何かで成果をあげていないと不安で仕方がないのだ。
どこへ向かっているのだろうね。
なにもそれは今に始まったことではなく、
昔から変わらないことなのかな。
それとも「人の感覚」のほうが変わってしまったのかな。
ドラマ「おしん」なんかを思い起こすと、
昔は「生きること」に必死だった。
その日の糧を得るために苦しい仕事に精を出して、
命をつないでいたのだ。
それが当たり前のことだった。
「生きるってことの定義」
もしかしたらそれが時代とともに大きく変わっていったのかな。
「豊かさ」がもたらした社会保障、
人が人であるための生活は保障される。
言い方を変えれば、生活の糧を得ることに必死にならなくても生きていける時代なのだ。
「生きられないこと」はないから、
どう生きるかは自分で選ぶことができる。
その選択の先に今があるから、
最終的には言い訳をすることができなくなる。
そうやって「今いる場所」に落ち着いていく。
ため息をつきながら、不満を溜めながら、
その時間をやり過ごして「休みだけ自由」
少なくとも平日は起きている時間の半分を仕事に費やす現代人、
ある意味では人生の半分を質に入れていることになりやしないだろうか。
そうなると残りの半分にまで影響を及ぼしてくる。
四六時中、仕事のことばかりを考えて家族のことは蔑ろ、
常にイライラしていて感情を引っ張られている。
それでいいのかな?
楽しくて職場のことを語りたいならばいいけれども、
大変で辛いという話を聞きたい人はほとんどいないだろう。
多くの人にとって「仕事は苦痛」
どう考えてもその風潮が元凶なんじゃないかな。
長時間労働をしないと回らない仕事に生き甲斐を感じている人もいれば、
長時間労働をしないと生活費がままならない環境で働いている人もいる。
それを一律で労働時間を厳しく制限するような働き方改革、
取らなければならない決まりだから有給休暇を取って家で働く人たち、
ルールで縛ったところで求められる成果が変わらないのであれば働かざるを得ない。
社会の在り方そのものが変わらないといけないんじゃないのかな。
そんなにお金を儲けることばかりに躍起になって、
社会は、人はどこへ向かっているのだろう。
内閣が変わり、選挙が終わり、
政治のトレンドは先進国の中で圧倒的に遅れている労働者の賃金向上に舵を切ることになりそうだ。
税制優遇措置により企業の内部留保を切り崩し、
労働分配率の向上を目指す。
それは素晴らしい方針だけれども、それだけでは何も変わらない。
心理的安全性が確保されて、誰かと比べることなく自分らしさを発揮できる社会、
まだまだそれには程遠い。