適度に「無駄」は必要だ。
佇む余白をどのように使うのか。
その姿勢により人生の色合いは大きく変化すると感じる。
あまりに色々なものを詰め込みすぎて生きていると、自らを振り返る余裕はなく、気がつくと時だけが過ぎている。
「記録」には残ったとしても「記憶」には残らない時間を過ごすことになるのだ。
そんな人生の使い方をしていて、
果たして最後の時を迎えた時に納得できる人生になっているのだろうか。
ふと、そんなことを考える。
私のこれまでを振り返ってみると、
「思い出」として残っているものの多くは「無駄なこと」だと感じる。
「あの時はあんなバカなことをやったなぁ」って、酒の肴となる思い出話はそんなものばかりだ。
何年か先に今を振り返った時に、何か酒の肴になるような思い出話があるのだろうか。
おそらく「コロナ禍で大変だった」
今の私の生活にはそれくらいしか語れるものがない。
テレビを見たり、Amazonプライムを見たり、
そういう無駄な時間はたくさん使っているけれど、半ば習慣のようになったその時間は、おそらく私の人生に記憶として残るような時間ではないのだろう。
この上ないほど手軽な余白な使い方だけれども、手軽だからこそ引っかかるものがない。
ある意味では、これらの無駄は「最適化」の一部なのかもしれない。
何か日常の枠から外れたようなことをしたい。
そう思っても、なかなかそういうチャンスはない。
今はそういう時期だと割り切るしかないのだろうか。
「最適化されたもの」は記憶には残らない。
だから、未来から見た今はどのように映るのか。
そういう視点は大切だと思った。
こういう時代だからこそ、今しかできないことはあるのではないだろうか。
無駄に時を過ごしてはいないか。無駄に人生を使ってやいないか。
コロナ禍となり2年、
私にとっては大きな変化をいくつも経験した期間だった。
この間も何人もの女性たちが、私の前に立ち止まっては通り過ぎて行った。
コロナ禍によるものも少なくはない。
難しい世の中だとつくづく感じる。
何かを成し遂げるための「断固たる決意」ってやつを求められる時代なのかもしれない。
選手生命にかかわるかもしれない怪我を負っても試合に出続けた桜木花道、
「オヤジの全盛期は全日本の時か?俺は今なんだよ!」
常に全盛期だと思い、後先考えずに全力で生きる姿勢、
何かを言い訳にして動かないことは簡単だ。
時と共に人生は「あるべきところ」にハマっていく。
だけれども、その「あるべきところ」は正しいのだろうか。
自ら進むレールの上で、その道が果たして正しいものなのか、と「今」に対する疑いを失ってしまったら、時はただ流れてしまう。
時が流れると言うけれど、流してしまってもいいのだろうか。
ほとんどを自宅で過ごす今だからこそ、糧になるような時を過ごしたい。
そう思った。