「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

人生とは「時間との追いかけっこ」なのかな

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世界にはまだ、

私の知らないことが山ほど転がっていて、

その中には「真理」を想起させるようなものもあるだろう。


だけれどもここ最近の私は、

それに「気づく」ことができない。


私から見える世界は、

「規則正しく」時を刻んでいるだけで、

何か「世界の見え方」が変わってしまうような、

そんな息吹はその片鱗すら見せてはくれないのだ。


そもそも、

「世界の見え方が変わる」と言ったって、

そんな出来事は滅多に起こるはずがない。


だけれども、

少し前の私は「漠然と」だけれども、

そんな「予感」を感じて生きていた。


「心が動かなくなってしまった」のかな。


幸い手足はまだ動くみたいだから、

ステップを間違えずに、

難解なダンスを踊り続けているつもりだ。


だけれども、私の前には、

ダンス・ダンス・ダンス』のように、

ユミヨシさんどころか、キキもユキも登場しない。


私は間違っていないと思っていても、

そのステップは間違いだらけなのだろう。


この↑表現にも見覚えがある。

 

前にどこかの記事で書いた物の使いまわしだ。

それだけ私の心は前に進んでいないということ、


「ザ・ワールド!時よ止まれ!」


私の心の時計は、

果たして時を刻んでいるのだろうか。


もしかしたら、

時が止まっているのではないか。


自粛ムードは加速して、

時間は持て余すくらいにはあるものだから、

サブカルに触れる時間は格段に増えた。


そういう記事を書き連ねてもいいのだけれども、

私のブログテーマは「私と世界との関わり方」


作品の批評ばかりしたところで、

おそらく私自身が納得しないだろう。

「ブログの在り方」を考える段階に来たのかな。

 

900日を踏破して、

当面の目標としていた1000日連続更新に、

何の実感もなく近づいている。


時が進んでしまうことが怖い。

いや、年を取ることが怖いのか。


何の実感も積み重ねることはなくても、

時計の針は規則正しく進んでいく。


そして私は実感することなく、

「死」に向けて時計の針を進めている。


「短針」をのんびりと眺めていたはずなのに、

気が付くと「長針」に追い立てられていて、

「長針」をやり過ごしたと思ったら、

更に速い速度で「秒針」が追いかけてくる。


人生とは「時間との追いかけっこ」なのかな。


「何かを残したい」

「何者かでありたい」

「生きた証を刻みたい」


「秒針」に追いかけられながら、

全力疾走で事を成す。

そんな「ウルトラC」を求められているのだ。


それに疲れたならば、

「秒針」とは重ならないように、

のんびりと「短針」が進むのを眺めていればいい。


今はそういう時期、

きっと、今はそういう時期なのだ。


「コロナ禍」はきっと、

人類にそういうことを教えてくれている。


悪くないだろう。

時を戻そう。。


残念ながら、

いくら「ぺこぱ」のように頭を激しく上下させたところで、

「無かったこと」にはできないのだ。


だからゆっくりだとしても、

本当にゆっくりだとしても、

前に進むしかない。


ほとんど動いていないように見えるけれど、

「短針」だってちゃんと前に進んでいるのだから、

 

ゆっくりでも良い。

前に進もう。