世界にはまだ、
私の知らないことが山ほど転がっていて、
その中には「真理」を想起させるようなものもあるだろう。
だけれどもここ最近の私は、
それに「気づく」ことができない。
私から見える世界は、
「規則正しく」時を刻んでいるだけで、
何か「世界の見え方」が変わってしまうような、
そんな息吹はその片鱗すら見せてはくれないのだ。
そもそも、
「世界の見え方が変わる」と言ったって、
そんな出来事は滅多に起こるはずがない。
だけれども、
少し前の私は「漠然と」だけれども、
そんな「予感」を感じて生きていた。
「心が動かなくなってしまった」のかな。
幸い手足はまだ動くみたいだから、
ステップを間違えずに、
難解なダンスを踊り続けているつもりだ。
だけれども、私の前には、
『ダンス・ダンス・ダンス』のように、
ユミヨシさんどころか、キキもユキも登場しない。
私は間違っていないと思っていても、
そのステップは間違いだらけなのだろう。
この↑表現にも見覚えがある。
前にどこかの記事で書いた物の使いまわしだ。
それだけ私の心は前に進んでいないということ、
「ザ・ワールド!時よ止まれ!」
私の心の時計は、
果たして時を刻んでいるのだろうか。
もしかしたら、
時が止まっているのではないか。
自粛ムードは加速して、
時間は持て余すくらいにはあるものだから、
サブカルに触れる時間は格段に増えた。
そういう記事を書き連ねてもいいのだけれども、
私のブログテーマは「私と世界との関わり方」
作品の批評ばかりしたところで、
おそらく私自身が納得しないだろう。
「ブログの在り方」を考える段階に来たのかな。
900日を踏破して、
当面の目標としていた1000日連続更新に、
何の実感もなく近づいている。
時が進んでしまうことが怖い。
いや、年を取ることが怖いのか。
何の実感も積み重ねることはなくても、
時計の針は規則正しく進んでいく。
そして私は実感することなく、
「死」に向けて時計の針を進めている。
「短針」をのんびりと眺めていたはずなのに、
気が付くと「長針」に追い立てられていて、
「長針」をやり過ごしたと思ったら、
更に速い速度で「秒針」が追いかけてくる。
人生とは「時間との追いかけっこ」なのかな。
「何かを残したい」
「何者かでありたい」
「生きた証を刻みたい」
「秒針」に追いかけられながら、
全力疾走で事を成す。
そんな「ウルトラC」を求められているのだ。
それに疲れたならば、
「秒針」とは重ならないように、
のんびりと「短針」が進むのを眺めていればいい。
今はそういう時期、
きっと、今はそういう時期なのだ。
「コロナ禍」はきっと、
人類にそういうことを教えてくれている。
悪くないだろう。
時を戻そう。。
残念ながら、
いくら「ぺこぱ」のように頭を激しく上下させたところで、
「無かったこと」にはできないのだ。
だからゆっくりだとしても、
本当にゆっくりだとしても、
前に進むしかない。
ほとんど動いていないように見えるけれど、
「短針」だってちゃんと前に進んでいるのだから、
ゆっくりでも良い。
前に進もう。