「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「創作」に熱を傾けると、苦労に感謝できるようになる

f:id:tureture30:20220415070855j:image

 

「芸の肥やし」

そういう言葉がある。

 

役者にとっては、不倫や失恋も「芸の肥やし」となる。

そういう表現で使われる言葉だ。

 

この言葉には大きく2つの意味があるのだろう。

 

1つは、自身の「過ち」を肯定するための隠れ蓑。

もう1つは、「苦労を糧にする」という意味での緩衝材だ。

 

私は、ブログを後者として使うことがある。

災難が降りかかったときに、ふと「ブログのネタになるな」と感じることがある。

 

それが緩衝材となり、ダメージを軽減してくれるどころか、

その災難が大したことでなければ「美味しい」とプラスに感じることもあるほどだ。

 

私はブログを通して、「苦労」を「楽しみ」に変えている。

そういうことになるのだろう。

 

それだけでも、ブログを続けている価値がある。

私のブログは、他のだれのものでもない、私のもの。

いい意味でも、悪い意味でも、そのことに変わりはないのだ。

 

私にとって、ブログは生活の一部と化している。

4年近くも毎日更新しているのだから、当たり前と言えば当たり前だ。

 

私のスタイルは、手間がかからない。

画像はほぼトップだけ、

ひたすらに思うことを文章にして綴るだけ。

10分やそこらで仕上がる記事もあるほどだ。

 

それに「書くこと」が癖になっているから、

ふと降りてきた言葉をスマホのメモに書き綴り、

あとでそれを広げて文章にする。

 

この記事のタイトルは、風呂に浸かっているときに降りてきた言葉だ。

 

ふとした時に自然と思い浮かぶ言葉たち。

大事な「気づき」が含まれていることもあるはずなのに、

不思議と別のことに気持ちが傾くと、泡のように消えてしまう。

 

「何を考えていたんだっけ?」

そうやって、私から生み出された言葉は永久に失われてしまうのだ。

それはもったいないと思う。

 

人生をより濃く生きるためには、そういった言葉たちを掬い上げて、

自分という人間を知るための材料にしたほうが面白い。

 

アーティストなんかは、

こういう手法で歌詞を作ることが多いという話を聞いたことがある。

たしか、あいみょんも常に降りてきたワードを書き留められる準備をしていると読んだことがある。

 

私のブログは1円も収益を生み出さないし、

そういう方向に進めるつもりはない。

だけれども、私の人生に彩りを与えてくれていることは間違いない。

 

私にとってのブログは、私の「作品」なのだ。

陶芸や絵画や工作と同じなのだろう。

だから、私は趣味としてブログを書き続けることができる。

書くことが楽しいのだ。

 

ポジティブな気持ちの時は、

一層ポジティブになることができる。

 

ネガティブな気持ちの時は、

それを吐き出すことでスッキリすることができる。

 

私にとって「ブログを書くこと」は、

下手な精神安定剤よりもよほどメンタルに効果があるのではないか。

つくづくそう感じる。

 

多くの人は、一定期間書いて吐き出すと、

それで満足して去っていくのだ。

いつまでも終わらない私は、やはり変わっているのだろう。

 

おそらくこれからも悩みは尽きない。

私にはずっと、この精神安定剤が必要なのかもしれないな。