テーマが降りてこないわけではない。
ネタに困っているというわけでは決してないのだ。
しかし、最後まで書き切ることができない。
不思議な現象だ。
前の私であれば、一度書き出したら1000数百字くらいは一気に書き上げることができた。
それをストックとして保持し、その日の気分によって拾い上げ、多少の手直しを加えて投稿する。
そういうスタイルで投稿を続けており、記事が尽きることはなかった。
最近はどうもうまくいかないのだ。
書き始めても500文字にも満たないあたりで言葉が出てこなくなる。
書けば書くほどにボキャブラリーは増えるはずだから、執筆は苦にならなくなるはずなのに。
どうもそうではないらしい。
精神的なものだろうか。
途中で筆を止めた記事を元手に加筆しようとしても、なかなかうまく進まない。
前であれば、ボツとして消去していたが、
今はそれも惜しいと思い、駄作で連続日数を食い繋いでいる日が増えた。
書きたいことは書き切ってしまったのだろうか。
私にはもう、世界に対してつきたい「悪態」の一つも無くなってしまったのだろうか。
環境としては「ぬるま湯」だった転職前の環境、
そこにいた方が言葉は沸々と湧き出てきた。
不誠実なクソ女への反骨心もあっただろう。
ドス黒い感情が渦巻いていた記憶もはっきりとある。
今は仕事に追われる毎日で、余計なことを考える余裕がないのかもしれない。
そうこうしているうちに、私の感性は枯れ果ててしまうのだろうか。
今の私は恵まれている。
なんだか自然とそう思えている自分がいる。
あれだけ「報われない」「満たされない」と書き続けてきた。
その心は「書くこと」で浄化されたのだろうか。
今の私は勇敢だ。
そして清々しい。
目の前の課題に言い訳せずに取り組んでいる。
「やらない理由」ばかりを探していた私は、
どこか私には見えない場所に身を隠している。
不思議なことだ。
「負の感情」は芸術の礎となる。
人の心に響くのは「負の感情」なのかもしれない。
村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』
その中で著者は、
「職業作家は物語を生み出すときに人間存在の根本にある毒素と正面から向き合い、フグの毒と同じように上手に処理する必要がある」と持論を述べている。
私は職業作家でもなんでもないが、文章を書き続けるという意味では同じなのかもしれない。
さらに氏はこう続ける。
「息の長い芸術行為を続けるためには、その毒素に負けない健全なメンタリティを維持する必要がある」
だから氏は走り続けるのだと言う。
私にとっての「毒素」
概ね出し切った感がある。
私は良くも悪くも凡人だと自負しているものだから、作家になるような人たちみたいに、沸々と毒素を沸き立たせ続けることなどできないのだろう。
以前と比べたら、精神的に健全な場所に身を置いているはずだが、
どれだけ健全なメンタリティを維持しても、私から言葉が湧き出てくるような気がしない。
自覚しているが、私のブログが読み物として面白かった時期は、2年ほど前までだろう。
そこから先はある種の延長戦みたいなもの、
既に期間としては、その延長戦の方が長くなってきた。
パニック障害により得た、
ある種の信仰体験みたいな時期は過ぎ去り、
私は再び、元の生活へと戻るのだろうか。
あれから6年が経つ。
ブログを書き続けて4年になる。
大きく変わる時期なのかもしれない。
やはり、時期なのだ。
身を固めることを深く決意する。
そういう時期なのだ。
「書きかけの記事」たち。
今の私の気持ちがブログから離れている象徴のようだ。
私はブログを書くことに、
飽きてしまったのだろうか。
あるいは、書き続けるための毒素が私の中には残っていないのだろうか。
ある意味で、今の私は幸せなのだ。