コロナ禍は「人の生態」を分析する上で、とても面白いサンプルをいくつも提示してくれている。
「学校に行かなくてもよくなった学生の妊娠が増えた」だとか、
「梅毒が過去最多のペースで増えている」だとか、
「パパ活やエンコーなど、個人で行う非正規の性風俗サービスが勢いを増している」だとか、
何が言いたいかというと、
「人はヒマになると性欲を抑えることができない」のではないかということ。
規律や規則に縛られた生活の中では、社会性を保つ必要があるものだから、自然とブレーキが効くのだろう。
しかし、その制約から解き放たれた時に人の本性が現れるとするならば、人だって動物だから、性欲を露わにしてもおかしくはない。
尤も、「生活苦からやむなく」や「人恋しさに耐えられない」など、性欲とは別の理由がこれらを助長しているのかもしれない。
だから、一概にそうとは言えないのかも知れないけれど、coccoさんが歌っていたように、人は「強く儚いもの」であることに疑いの余地はない。
かく言う私は、コロナ禍になってどう変わったのか。
むしろコロナ前の方が性欲を露わにしていたかも知れない。
婚活にお熱になり、週替わりで別の女性との出会いを重ねていた。
「すけこまし」のように何度も女性たちとのデートを繰り返す姿は、今振り返ってみても「よくやっていたな」と感心するほどだ。
そこからコロナ禍となり、出会いはプツリと途切れた。
そうなると、借りてきたネコのように大人しくする辺り、さすが「童貞こじらせ男」である。
世間はそれを我慢できないものだから、特定のパートナーがいない場合は、お金を払ってでもそれを満たそうとする。
そういうサービスが規制されていれば、非正規なサービスを利用する。
なんともたくましいことだ。
しかしながら、それだけのスキルと経験を身につけていない私のような人間は、大人しくしているしかないのだろう。
それを見て「理性が働く」と評されたところで、ただの臆病者に過ぎないことは自覚している。
人はヒマになると性欲を発散させようとする。
だけれども、私はその術がわからず悶々とする。
これがコロナ禍が教えてくれた一つの真理だ。
現に、私には特定のパートナーが出来たけれど、
いまだに体を重ねるまでには至らない。
もはや「未経験」がデフォルトになりすぎて、どのようにここから脱却すればいいのかわからないのだ。
「忙しさ」を理由にして、あまり向き合わないようにしてきたのかも知れないけれど、さすがに彼女の方も痺れを切らしたのか。
「お泊まり」の提案があった。
そして、半ば強引に日取りも決まった。
意図は明白で「そういうことをするため」であることに疑いの余地はない。
「誠実さ」がどうだのと、正論振りかざして逃げ続けてきた私にも、いよいよ勝負をしなければならない時が来たのだ。
ある意味では、忙しさの中にうまいこと予定を差し込まれて、通過すべきイベントの一つとして自然とそのような成り行きとなった形。
これまでの恋愛では、奇跡的にうまく行く方向とは逆の選択肢ばかりを選び続けてきた私だから、
やはり最後まで、他人とは逆の道をいくのだろう。
人はヒマになったらSEXをする。
だけれども、私は忙しくなったらSEXをすることになった。
おそらく、今回ばかりは「誠実さ」を言い訳に逃げることはできない。
いよいよ、私と女性たちとの長い戦いは幕を閉じるのか。
それとも、これは新たな戦の始まりなのだろうか。
私にそれを判断する術はない。
そもそも、1回目の試みでちゃんと卒業できるのかはわからない。
大丈夫だろうか。