「要領のいい人」は仕事ができると評価されても違和感ないが、「要領だけいい人」が評価されていると、多くの人は憤りを感じるのではないだろうか。
先日オンライン研修を受けていた時の話。
グループワーク中ほとんど話さないばかりか、あまり話を聞いている様子もない。
そんな人と同じグループになった。
ところがその人は、講師がグループに巡回するや否や、自分が中心で話していますとばかりに仕切り出す。
講師が抜けてしばらくすると、また発言をしなくなる。
こういう人がいるだけで、グループ全体の空気が悪くなる。
おそらく2度と関わることのないであろう単位での研修だから、後腐れがあったところで痛くも痒くもない。
そこまで計算しているのだろう。
その研修で自分の評価を上げることにだけに躍起になっているのだ。
それだけな労力を費やすのであれば、普通にグループワークに参加して、グループに貢献すれば良いのにと感じる。
私には不思議で仕方がない。
こういう人たちは、上辺の期待から実力に伴わない仕事を割り当てられた時に、どのように対処するつもりでいるのだろうか。
詰まるところ、実力を身につけないと、後で自分が苦労する。
いつまでも適当な対応で逃げ切れるほど、社会は甘くなどないのだ。
それならば、事あるごとに顔を出す課題を成長の機会と捉えて取り組めば良い。
その積み重ねの中で、後悔のない人生がつくられるのではないだろうか。
卑屈になるということは、おそらく本人の中で自分の努力が足りないことに気がついている証拠。
要領の良さだけで生きていると、自己評価ばかり高くなり、大きな課題に直面した時に、できない理由を何かに転嫁する。
どこまでいっても、自分は自分のことを見ているのだ。
自分は自分のしてきたことを知っているのだ。
だから、自分に恥ずかしくないだけの努力は続けていかなければならない。
歪んだ形で自分のことを甘やかしてしまった先には、あまり輝かしい未来が待ち受けているとは思えない。
それを含めて自己責任なのだから、周りがとやかく言うこともないのかもしれないけれど、要領の良さだけで生きている人に出会うと、憤りを感じるあたり、私はまだまだ甘いのだろう。
そんなことは気にもかけずに、やるべき事をやり続けるだけの力強さを身につけて、私は私の人生を生きる。
それでいいのだ。