ホモ・サピエンスは「集合知」を武器に時代の荒波を生き残ってきた。
「集合知」
初めは言葉や文字、個体の成果を別の個体に残すべく、人は言葉や文字を発明した。
それが膨大なアーカイブとなり、今や加速度的に知識を吸収するモンスターのように、ただ貪欲に、ただ機械的に24時間休むことなく量を増し続けている。
今や、そのアーカイブ無くして世界は回らない。
先進国は例外なく法律という決まりごとに支配されて、過去の前例をもとに新たな事例を生み出し続けている。
「社会」
人類は巨大なプラットフォームを作り上げた。
そして、誰もが生まれながらにしてそのプラットフォームに組み込まれている。
そうなると、作り上げた側にも責任はある。
その枠からはみ出さざるを得ないような形で生まれてきた人たちに対しても、それを包括する義務を負うべきなのかもしれない。
「居場所がない」
そうやって家を飛び出して、体を売ることでしか生活をできないような「トー横女子」なるものが社会的な問題となっている。
そういう子供たちが「自死を選択した」というニュースを横目に、心無い言葉を見るたびに、憤りを感じる。
「事件に加担したり、周りに迷惑をかける前になくなった方が世のために淘汰された方が世のためだ」
これが人間の発する言葉だろうか。
「社会」というコミュニティに所属して、その恩恵を受けることが当たり前になっている。
「自分が恵まれていること」に対する感謝はなく、報われないことに対する不満ばかりを主張する。
会社組織で見れば、そんな地雷を踏むような主張も、国や社会という単位で見れば、こういった主体性のない方が多数派となるのだ。
だから、そうやって他人の命を馬鹿にするようなことを当たり前のようにできてしまうのだろう。
たまたま、自分は恵まれた人たちに囲まれて生きているだけ。
もしも、自分の子供がそうなってしまったならば、他人事でいられるのだろうか。
SDGsが当たり前のように叫ばれるようになった。
それにより、社会を構成する個人の責任範囲が大きくなったのかと勘違いしがちだけれども、ただの利害関係でしかないのだ。
本当に地球を良くするために、一人一人が「自分にできることをしよう」と少しでも気持ちを変化させることができるならば、それが大きな渦へと変わるのではないだろうか。
甚だ懐疑的ではあるが、人間の精神性が高潔な方向に進んでいると、私はなんとしても信じたい。
人が「社会」というコミュニティを立ち上げて、築いてきた営みにより、人間の本質が何も変わらないのであれば、それはとても虚しいことのように感じる。
おそらく、それも私が「恵まれた側」だから感じることなのかもしれない。
肉体的と精神的に一度ずつ死にかけて、地面を這いつくばりながら生きた期間もあった。
それでも立ち直れたのは、やはり私の環境が恵まれていたからだということは否定できない。
どうしようもない環境に生まれて、そこから抜け出すための教育すらまともに受けることなく、ただ本能的に他者を道具と見做して生活する。
そうしていると、自分の命まで道具として扱うようになり、他人からも道具として扱われるようになる。
話はまとまらないけれど、経済だな政治だの、そんなことは一切関係なく、人が精神性を高潔な方向に進めることさえできれば、この世の課題のほとんどは解決するのではないかと思う。
利害だけで結ばれた関係があまりにも多くなりすぎた。
利害なく結ばれる関係など、ほとんど存在しないのではないかと思うくらいだ。
同じ「コミュニティ」に属する人類として、ほんの少しで良いから、自然と人のために生きられるような瞬間を増やすことができるようにしたい。
漠然と、そう思うのだ。
それを忘れないことが、「社会」というコミュニティから恩恵を受けて生きている私たちの義務であり責任なのかもしれない。