通勤の時に、満員電車に揺られながら、ふと周りを俯瞰してみると、さまざまな人間模様を読み取ることができる。
ドアが閉まるギリギリで電車に駆け込むカップル。
仲睦まじい様子だ。
混んできても、意地でも紙の新聞を広げたままスペースをとる人。
あまり周りのことを気にしない様子だ。
対面に私が立つと顔を背ける人。
あからさまに気の強い眼差しを向けてくる人。
反応はそれぞれ。
夢中に眺めるスマホの中身もゲームだったり、動画だったり、LINEだったりとさまざまだ。
「満員電車」は、たくさんの人に囲まれながらも、
もはやプライベート空間に昇華されているのかもしれない。
周りの人は景色で、個人的なことをしながら過ごす場所。
1日のうちの1,2時間ほどを過ごす場所なわけだから、そうなることも当たり前だ。
肩が触れるくらいの距離で接する人のほとんどが、そこでしか関わることのない人たち。
だから、その人たちのことを気にしない。
そうやって、人は満員電車に揺られながら、個人的な時間を過ごして目的地に辿り着く。
そして、それぞれの1日が始まる。
帰りは帰りで、車内でスマホと缶ビールを片手に楽しんでいるスーツ姿の人がいる。
「この人は、その日にどんな嫌なことがあったのだろうか」
家まで我慢できないほど酔っ払いたいのだろう。
そんなことを考えながら見ていたけれど、もしかしたら、その人にとっては、それが日常なのかもしれない。
多くの人が同じ箱の中で同じ時を過ごす。
そこには、様々な思いが交差するのだ。
スマホの普及により、どこにいても個人的な場所を確保することが可能となった。
体は別の場所にいても、オンラインでは同じ空間を共有している関係性が増えた。
だから、肌が触れ合う距離にいる目の前の他人のことなど、意に介さないのだ。
そうやって、人はどんどんパーソナリティを肥大化させて行く。
そして、それが目に見える位置にあったとしても、多くの人は、それに興味を持つことはない。
体と心は別のところにあるのだ。
そう考えると面白い。
スマホばかり眺めていないで、人間観察をしていた方が、ブログのネタを収穫できるような気がするほどだ。
私は、人の背景にあるものを考えることが好きなのかもしれない。
人類はどこに向かっているのだろうか。
満員電車に揺られながら、毎日会社まで行くという行為が、もはや時代遅れで非合理的なように感じる。
人のせい月が変わっても、社会はなかなか変わらない。
そうやって、日本人は世界から遅れていくのだろうか。