先日、出勤する時にスマホを忘れて、覚えていないくらい久しぶりに切符を買ったという話を記事にしたが、スマホを持たないで1日生活をしてみて感じたことを記事にしたいと感じたため、今回はそれを書く。
一言で申し上げれば、表題の通りだ。
「スマホに時間を奪われている」
おそらく、私たちは費やす必要のない時間を、スマホを使って潰しているのだ。
実際に1日くらいスマホを忘れたところで、人生に影響があることはほとんどない。
帰宅したときに届いていたLINEは、ほとんどがグループに当てられたもので、私個人が緊急で返答しなければならないものは無かった。
そう考えると、連絡の手段としては、1日に何度か、決まった時間にだけスマホを確認すれば済むということになる。
スマホのメインの用途は、連絡手段。
その他のことは、枝葉のようなものだ。
決済にしても、画面を覗く必要はないし、ネットやゲームはやらなくても良い、ただの時間潰しである。
そういう状況にも関わらず、私がスマホの画面を確認する回数は、1日に10,20では収まらないだろう。
そう考えると、スマホを利用する時間のほとんどは、私にとって必要のない時間なのではないかと感じる。
通勤時にスマホをいじらずにボーッとしていると、車窓からの景色には、いつもは気がつくことのない、興味を惹かれるものがいくつかあった。
毎日、電車に揺られながら通っている場所なのに、それまでは気がつくことのなかった景色。
私たちは、スマホの画面に夢中になることで、自らに目隠しをしているのではないか。
画面を通した疑似体験に満足して、肌で感じることのできる感動を取りこぼしているのではないだろうか。
そう考えると、とても勿体無いことをしている気がする。
「フィルターのかかった薄味の感動」
それしか味わうことなく生きているうちに、濃い味の感動に胸焼けを起こしてしまうようになる。
そんな人生が「幸せ」と言えるのかは分からない。
人類は、世界を繋ぐために、デジタルの世界にネットワークを広げてきたけれど、そこで見る景色は、「誰かの感動」であって、「自分の感動」ではない。
添加物の多い代替品としての感動をたらふく食べては満足するようになった人類。
ある意味では、同じものを見て、同じことを考えて、人類が一つになるために有効な手段なのかもしれない。
しかし、これから先、共有化が進み、誰もが金太郎飴のように、同じものを見て、同じことを考える世界のどこに、喜びを感じればいいのだろうか。
「人に迷惑をかけてはいけません」
「社会のルールを破ってはいけません」
確かにその通りなんだけれども、その境界線の曖昧なところに「個性」と呼ばれるものがあることも少なくない。
彼らの漫才の評価として、「悪口をタブー視する昨今のメディアを取り巻く風潮に穴を開けて、風通しを良くしてもらいたい」というものがあった。
誰もが同じようなものを見て、同じように感じる社会。
ルールを遵守して、それを破りながらも、ルールには守られるというタダ乗りのフリーライダーには、2度と社会復帰できないような制裁を与えて悦に浸る。
なんだか、優しいようで優しくない。
ルールは守らなければいけない、それに疑いの余地はないけれど、ルールのウェイトが大きくなりすぎて、人間を軽んじる方向に進んではいないだろうか。
画面の向こう側にいる人も、自分と同じように、脆く弱く傷付きやすい人間なのだ。
そういう視点を失ってしまったら、人は「社会*に飲み込まれてしまう。
だいぶ話は逸れたけれど、0と1の世界に縛られることが当たり前になった人類の未来に「寛容さ」を残すことわできるのだろうか。
「ルールは大事」だけれども「人間のほうが大事」
そのことだけは忘れないようにしなければならない。
人が道具にしか思えなくなってしまったら、
この世界で信じられるものは、何も無くなってしまうのだから。