お年寄りの方と接する機会を増やすこと。
その重要さを感じた。
20年来の私の知り合いの話。
出会った頃は60代くらいだっただろうか。
バリバリの元気なおばちゃんだった。
今は80代くらいだ。
病気を経て、杖をつきながら歩くようになった。
昔の様子はガラリと変わり、辛そうな仕草が目立つようになった。
「これが老いる」ということなのだな。
私はそう感じた。
もちろん、病気がなければ60代と変わらず元気なままの80代でいられるのかもしれない。
しかし、歳を取れば取るほど病気のリスクは大きくなる。
避けたくても避けられるものではない。
今の時代、若いうちから、お年寄りと接する機会は少ないことが一般的だろう。
だけれども、自らの行く末を認識するために、お年寄りと接する機会を得ることが大事だと感じた。
ゲーテが『ファウスト』に描いたように、若いことは何にも変え難い価値の一つだ。
その事を認識して生きるためにも、自分の行く末を知る。
そうすることで、若さを無駄遣いしなくなるのではないだろうか。
パパ活や援助交際という形で、若さを安売りする人たちがいるけれども、それは自らの価値を乏す行為だと感じる機会にもなるかもしれない。
宮崎駿監督のデザインした理想の街づくり、
確か『虫眼とアニ眼』という養老孟司氏との対談集に詳しく描かれていた。
その中で印象的だったのは、保育園と老人ホームを一つの建物にまとめることで、子供とお年寄りの接する機会を増やすとしていたところだ。
子供は、物心つく頃から死に触れることで無常を学び、お年寄りは子供に触れることで生きる活力を得る。
宮崎駿監督自身も「このような環境で最後を過ごしたい」と書かれていた。
「人生の先輩」
時代は加速度的に進み、さらに勢いを増して先は先へと進んでいくだろう。
しかし、いやだからこそ、私たちは、お年寄りに対して敬意を抱き、その生き様から自らの行末を理解し、学ぶべきではないだろうか。
時代が先に進むから、それに着いていくことばかりに思いを巡らせて、本質的な「生きる意味」から目を背けてしまうような生き方を続けていたら、最後に後悔するような気がする。
私たちは、時代に振り回されて、生き急いでいるのだ。
そうせざるを得ない部分は仕方がないけれど、そうしなくても良い部分は、もっと自分らしさを追求するような時間の使い方をしたい。
その一つの方法が「人生の先輩から学びを得ること」なのかもしれない。
懐かしむように昔の思い出を語る姿は、私たちに大事なことを教えてくれているのかもしれない。