人が「ニヒリズム」に陥るまでの過程は、実は至ってシンプルなのかもしれない。
自分の手の届く範囲に対して「無力だ」と感じた時、人は「世界を諦める」のだ。
その「世界」が小さなものであれば、その時に出す答えは簡単だ。
その「世界」から足を踏み出せばいい。
「転職」という行為もその一つだろう。
しかし「世界」が抜けることのできないほど大きなものとなってしまったならば、その人はどうすれ良いのだろうか。
最もわかりやすい答えは「それでも諦めない」ということだ。
「世界はどんどん距離を縮めている」
誰でも簡単に知識を得ることができ、世界のトップオブトップの生活にも、扮装地帯の生活にも簡単にアクセスできる時代になった。
今まで知ることもできなかったことが、他人事ではなく自分事となり、環境問題に力を入れる人は増えた。
何処もかしこも「エコ」「エコ」「エコ」
人々は、自らの時間を「エコ」のために使わないことは悪だという思想に包まれている。
反面、人々は個々人が「環境問題」という世界を巻き込む大きな課題と向き合う必要が出てきた。
夕食の献立や、職場の人間関係に対する悩みくらいだったら、個人で解決することもできただろう。
しかし、環境問題を個人で解決できる人は、おそらく存在しないはずだ。
それでも、私たちは、それを己の課題として引き受ける時代になった。
「無力」を感じた経験が「無気力」に変わる。
今の時代を包み込む「なんとなく諦めたような風潮」
若者は日本の将来に期待をしなくなった。
もっと言えば、世界の行く末にも期待をしていないのかもしれない。
いつまで地球が持つのかもわからない。
いつ社会が崩壊するのかもわからない。
常に集団への貢献を求められて、その枠から足を外すと袋叩きに遭う。
個人で担う「世界」が大きくなり過ぎてしまったのだ。
だから「無力」が「無気力」に変わる。
もっと足元の幸せを追い求めるような人生でいいんじゃないかな。
「やらなければならないこと」はやるとして、もっと若者が希望を語り合えるくらいに、人類はバカになっても良いんじゃないだろうか。
社会が成熟し過ぎて、無機物が力を持ち出して久しい。
これから先の時代は、AIに人間の権利を譲渡する時代に進むだろう。
そうなったら、人の価値なんて何処にあるのかわからなくなる。
自分の心は何を求めているのか。
それを明確にして、それに向かって着実に進んでいる実感があれば、「無気力」に支配されることなんてないんじゃないかな。
「多くのもの」を個人で背負い過ぎているのだ。
背負うのは税金の負担だけで充分だ。
心はいつまでも自由でありたい。
そう思うのは、私だけだろうか。