「価値観の多様化」を肯定する風潮。
「個性はどこまでも尊重されるべき」という方向に時代は進んでいる。
無秩序だった子供の世界にも秩序は侵食し、
今や、誰もが誰もを認めることが善であり、
誰もが誰もに肯定される権利があるということが前提になっている。
(少なくとも、法を犯さない限りは)
そうなると、自分の物差しの重要さは増す。
「自分らしさ」をどこに置くかによって、
その人のアイデンティティは形作られる。
そして、それを的確に表現することで、
相性の良し悪しを判断しながら「つながり」が生み出されていくのだ。
「有機物・無機物」
「血の通った意見」とそうではない「テンプレ回答」
その見極めが今ほど難しい時代はないのかもしれない。
誰もが性癖を隠しながら「普通」に振る舞う。
そうしていないと、簡単に社会的に抹殺されるリスクを孕んでいるからだ。
だから、誰もが「良い子」であることを演じて、組織の中に居場所を見出して生きている。
どれが有機物で、どれが無機物なのか。
その判断基準も個人に委ねられるのだろう。
自分が「愛せる」と思えばそこに血が通うし、そうではなければ血は通わない。
所詮、個人の目で耳で肌で、現象を判断した結果を信じるしかないのだ。
ここまでの内容が文章として適切であり、読者に的確に伝わっているかはわからない。
これは、私の感覚的なものであり、相手の主観で見れば、同じ現象に対しても、捉え方が全く変わることもあるだろう。
何を書きたかったのかわからなくなってきたが、
ひとつだけ主張するならば、
私は「血の通った有機的な言葉で話したいし、有機的な繋がりを増やしたい」ということだ。
全てを「正しいこと」で固める必要はない。
「弱さ」や「ずるさ」
「裏切り」や「傲慢さ」の中にも血は通うのだ。
どんなに「正しさ」で理論武装したとしても、
必ずどこかに綻びは生じる。
そこで垣間見えた真実が「絶望的なもの」であるよりは、普段から有機的な付き合いを続けていた方が相手のことを「愛すること」ができる。
ただ順番が違うだけで、致命的に「つながり」が変わることもあるのだ。
「簡単には本音を見せない時代」
だからこそ「本音」に価値が生まれる。
これから先の時代は、如何に本音を心地よく曝け出すことができるのかで、だいぶ過ごしやすさが変わるのかもしれない。
それができる人の元には人が集まる。
そこにまた価値が生まれる。
無機物よりも有機物。
血の通った世界へと進んでいけばいい。