誰もが自分の存在価値を示すために、誰かに認めてもらいたがる。
ある意味では、その価値が肥大化して「生きる意味」となっているのかもしれない。
「生きた証」を残すためには、それを認めてくれる存在が必要だ。
結局のところ、人は人の中でしか生きることができないのかもしれない。
人と人とは簡単につながることのできる時代になった。
だけれども、それによって人と人との距離が縮まったのかと言えば、そんなことはないのかもしれない。
多くは簡単に切ることのできるつながりで、自分の「生きた証」を証明することのできるつながりなど、そう簡単に作ることのできるものではないのかもしれない。
「自分の存在を認めてほしい」
そう願うのであればさ。
自分の周りにいる人の存在を認めることが必要だ。
自分が「自分のことを認めてほしい」と思っているのだから、自分以外の人も少なからず同じ感情を持っているはずだ。
人と人とのつながりは、共依存的なところがある。
「あの人が自分の存在を認めてくれる」
だから「私もあの人の存在を認める」
そうやって、信頼はつながっていくものじゃないのかな。
「相性の良し悪し」も相手とそういう関係を構築できるか否かで決まるのだ。
「人は鏡」とよく言われるけれど、それはわかりやすい心理だ。
自分の欲求を満たしてもらいたかったら、自分が相手の欲求を満たすことを求められる。
それ無しに自分の欲求ばかりを満たしていたら、そのうち人は離れていく。
「大きな社会」の中で生きていくためには、自分もその「大きな社会」に貢献しないと爪弾きに遭ってしまう。
コミュニティとはそういうものなのだ。
人間関係は難しいようで、その構造はシンプルなのかもしれない。
お互いに「自己承認欲求」を満たし合う。
私たちはそういう生き物なのだ。