娘に話しかける時、私は自分のことを「パパ」と言っている。
いつからかはわからないけれど、自然とそうなっていた。
それに気がついた時、私は自分のことを父親だと自認しているのだと、そう感じた。
確かに私は父親になったのだ。
パパ活のパパではない。
0歳の娘の父親になったのだ。
改めて振り返ってみると不思議な感じがする。
「あの私」が今や父親だ。
腐れ童貞で、婚活にも失敗ばかりして、半ば結婚を諦めていた「あの私」がだ。
人生はわからない。
3年前の私が思ってもいないようなところに、今の私はいる。
そして、今は3年前の私が望んでいた場所でもある。
一つでもボタンを掛け違えていたら、今の私には辿り着いていない。
確かそれがそんなテーマの話だったはずだ。
私の両親の両親の、そのまた両親まで含めて、何か一つでも些細なボタンのかけ違いで結ばれていなければ、今の私は存在していない。
そして娘も存在していない。
ある意味、そうやってバトンは受け継がれていく。
いろんな人に支えられて生きながらえて、さらに未来へ、未来へと繋がっていくのだ。
そう考えると、今私たちがこうやって生きていること自体が奇跡のように思える。
私は「パパ」になった。
そして、娘もいつかは「ママ」になるのだろうか。
それはまだずいぶん先の話だ。
私は娘のお陰で、経験できなかったかもしれないたくさんのことを経験させていただいている。
そして、それは私が望んだこと。
「パパ」という言葉を発する時、私の口から発せられる空気と共に、私の中の期待と不安が音もなく消えていく。
その度に私は「パパ」であることを受け入れていく。
人は環境に慣れるのだ。
今はまだ、地に足がついていないだけ。
私がまだ「パパ」になりきれていないだけ。
娘が私のことを「パパ」だと呼び出したならば、私は「パパ」であることに慣れてしまうのだろう。
今のこの感情は、今だけのもの。
そしてこれから先も、娘は私にたくさんの感情を運んできてくれるのだ。