「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

自分だけが我慢すればいい

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そんな状況が続くようならば、

それは不幸の始まり、

いや、もはや不幸なのだろう。


我慢できるうちはいい。

我慢することに使命感を感じているうちはまだいい。


だけれども、

そのことが原因で体調に支障をきたしたり、

消えてしまうことばかりを考えてしまうならば、

そろそろ限界が近いのかもしれない。


しなくてはいけない我慢はあるし、

その我慢が実を結ぶこともある。


だけれども、

我慢できる限界というものは個人差がある。


「みんな我慢しているから私も」

そういう考え方は身を滅ぼす。

 

我慢の理由が、

「家族を守るため」ならば、

家族でシェアすればいい。


それを、

「忙しいからそれどころではない」

そんな理由ではねつけていたら、

なんのために家族をしているのだろう。


すれ違ったら話し合い。

傷つけたら「ごめんなさい」

嬉しかったら「ありがとう」

どんなに嫌なことがあっても、

家を出るときは「いってきます」

帰ってきたら「ただいま」


そういう当たり前の積み重ねを忘れてはならない。


子供のことだって、

親のことだって、

相手のことだって、

二人で背負う覚悟をしたから一緒になったんでしょ。


それを片方だけが放棄するならば契約違反、

自分が守れていないと思うならば、

それも同じ、


犠牲になることは美徳ではない。

幸せになることが美徳であるべき、


「君と好きな人が100年続きますように」

 

誰かの陰の涙があって、

そのように思われて結ばれたかもしれないのに、

簡単に諦めて、傷つけあって、別れて、

そんなのは誰も救われない。

 

覚悟もないのに、

欲望を満たすために、

寂しさを紛らすために、

 

人の弱さがまた弱さを生み出す。

幸せを分け合うために一緒になったはずなのに、

 

 

絶望よりも不安の方が心にいる時間が長い

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絶望には輪郭がある。

不安にはない。


だから心に留まり続ける。


もしかしたらそれが希望に変わるかもしれない。

99%無理だと思っていても1%にすがる。


それならば一度絶望してしまった方が良いのかもしれない。

「もうダメなんだって、現状を受け入れてあげればいい」


それはものすごくつらい作業、

だけれども、そうした方が希望への近道、


遠ざけても遠ざけても、

絶望はやってくる。


いつだって希望を忘れずに、

笑顔で居続けないといけないなんて、

明るく元気に振る舞わないといけないなんて、

そんなことをしていたら心は壊れてしまう。


周りはあなたが思っている以上に、

無理をしていることに敏感なもの、

口には出さなくてもわかるのだ。


だから一度、絶望したらいい。

とことん絶望したらいい。

これ以上は絶望できないくらいに、


キルケゴールの『死に至る病

冒頭でその正体は絶望であると説く。


そこで立ち止まったら確かにそうだろう。


この世界の成り立ちなんてものを考えても仕方がない。

神にすがったところで何かをしてくれるわけではない。


遠い先の未来を描くことが難しいならば、

身の回りから希望に繋がりそうなものを探してみればいい。


粘土やゴムみたいにしか思えなかった食べ物、

その味を確かめるようにゆっくりと噛み締めてみればいい。


やらなければならないだけのものだった、

掃除、洗濯、皿洗い、

それをいつも以上に丁寧に隅々まで心を込めてやってみればいい。


やるべきことが、

命を繋いでくれる。


まだまだやるべきことが、

日常には溢れているのだ。

 

やらなければならないことは、

生きるためにやるべきこと、


視点を変えてみて、

丁寧に、丁寧に、

これ以上はできないくらいに丁寧に、

それに取り組んでみればいい。


生活を立て直すためには時間が必要、

必要な時間を自分から奪ってはいけない。


思い切って休んで見るとほら、

なんてことはない。

世界はいつもと変わらずに動き続けている。


視野が狭くなっていただけ、

世界と自分との関わり方をもう一度考えてみよう。

それが生活を立て直すための第一歩、

 

T.T

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前向きな言葉が出てこないのだ。


時期的なものなのか。

気温と同じようになんだか不安定なこの頃、


花粉で目がかゆい。

目薬を点すたびに流れる涙は偽物だけれども、

いつでも本物を流す準備はできている。


涙の数だけ強くなれるらしい。

見るものすべてに怯えてしまう。

明日は来るのか、私のために、


前向きな言葉が出ないどころか、

受け入れることができない。


誰かのそれも、

どこか飾り物のように感じてしまう。


期待することが怖い。

どこまでこじらせたら気が済むのだろう。


いつだってグレーゾーン、

そこの居心地がいいのだろう。


相手の心を掌中に収めているような気になって、

そこから抜け出そうとしない。

からしびれを切らして去ってゆく。


言葉が欲しい。

責任を負いたくないから、

失敗しても相手のせいにできるから、


態度だけでは信じられない。

今まで散々失敗してきたから、


きっと私は自分が大好きで、

傷つかないところから出たくないのだろう。


一歩踏み出せば責任を伴う。

簡単には踏み出せない。


それを「誠実さ」だと言い聞かせて、

ただの「臆病」であることを認めたくない。


何回繰り返せば気が済むのだろう。


「誰もが脆く弱い人間」


そのことさえわかっていれば、

気持ちを差し出すことに臆病にならずに済むのに、


差し出すものを差し出さないで、

欲しいものを手に入れようだなんて虫のいい話、


「言葉がほしい」

 

そう思うならば、

先に言葉を差し出さないといけないな。


拙くて安っぽいかもしれないけれども、

心からの「好き」という言葉を、

 

やわになったな

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そう感じることが増えた。

前はもっと反論することを厭わなかったし、

掲げた理想を大事にしていた。


もはや反論する気力すらない。

言われた通りにする方が何倍も楽に感じてしまう。


まるで去勢されてしまったみたい。


「社会」という主人に飼いならされて、

報酬や立場という餌ばかりを与えられて、

まともな食事をしなくなってしまうと、

男でも生理不順に陥ってしまうのだろう。


「男らしさ」について論じるつもりはない。

 

だけれどもそういうものは確かにあって、

大事にしなければならないものの一つなのかもしれない。


夢だの理想だのに振り回されているうちが華、

 

いつまでも子供みたいに、

それを追い続けられたならば、

きっとこんなことでは悩まないのだろう。

 

なんだか大人になりすぎて、

それを通り越して年老いてしまったみたいで、

新しいものを手にするための気力を出すだけでも一苦労、


「やわになったな」


つくづくそう思う。


昨日だって、友人のきつい一言に、

尻尾を巻いて逃げ帰ってきた。

反論する気力も湧いて来なかったから、


早く帰って、

風呂につかりながら読書して、

自分を見つめ直して、

ストレッチして寝る。


生活を崩したくないのだ。

これでは結婚できないわけだ。


「今はきっとそういう時期」


社会から与えられる餌がモチベーションになるかもしれないし、

新たな出会いがそうかもしれない。


こればっかりは待つしかない。

そして今度こそはチャンスを逃さないように、

上手に踊るしかない。


今はただ、やるべきことをやり続ければいい。

ステップを間違えないように、

自分の流儀に従って、


踊ることを辞めなければ、

それだけでいいのだ。

 

 

震災から8年、

風化するのに十分なほど長い長い歳月、

だけれども人によって時の流れ方は違う。

 

まだまだやわなままでもいい。

少し長くても「そういう時期」なのだから、

 

 

100万人に一人の難しさ

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平均以上であればいい。

恋愛は底辺だけれども、

他はだいたい中の上くらい、

もう一歩で結果を出せるときにいつもうまくいかない。


概ねこんな人生だ。


「尖ったものを身に付けたい」


そんな事を考えてはいろんなことに手を出して、

そこそこ楽しみながら生きているけれども、

何をしても「そこそこ」で終わってしまう。


ホリエモンさんと落合陽一さんの対談で書かれた、

『10年後の仕事図鑑』によると、

時代に求められる「レアな人材」と考えた場合、

100万分の1の突出度が目標となるらしい。


日本でトップ100くらいというところだろうか。


でも100万人の中で一番になれるもの、

そんなものはなかなかない。


そこでホリエモンさんがいうには、

コンビネーションで考えればいい。


価値あることの「100分の1」が3つ重なったら、

その人は100万分の一の「レアな人材」になることができる。


例えば、「毎日ブログを書いている」「病気」「中年童貞」とか、


これで、

200人以上読者がいるはてなブログは5.6%らしい。

罹患率3%くらいの病気にかかった。

30代以上の童貞は25%くらいらしい。


ざっくりとした数字だけれど、

10000分の4.2

2500分の1くらい、

 

コンビネーションでもそんなものなのか。

100万分の1は相当に難しそう。

そもそも1%を3つだもんな。


読書家とか、ジム通いとか、ドラマ好きとか、松田龍平似とか、

増やせばいくらでもレアになるけれど、

比例して価値は薄れていく。


それならばニッチなところでの一番でも目指すかな。


例えば、

「世界で一番愛を求める中年童貞」とか、

「童貞王」とか、


「愛をください!愛をください!」と世界の中心で叫んでみたり…


小舟一艘で「童貞王に俺はなる!」とか言って冒険に出てみたり…


なんだか別に「レアな人材」じゃなくてもいいような気がしてきた。

 

先日会った女性、

普通すぎるくらい普通で驚いた。

それもある意味では「レアな人材」

 

月並みだけれども、

「もともと特別なオンリーワン」

きっとそれは弱者を守るための言葉、

 

だけれども、

言葉は希望の灯火であるべき、

人を傷つけるための言葉なんて、

世界からなくなればいいのだ。

 

 

椅子取りゲーム

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誰かと結ばれたいと願えば、

同じ人を好きになった誰かの不幸を願うことになる。


相対評価の成績表、

決まった採用枠、合格数、仕事の受注もそう。

自分が評価されることで他の誰かは評価されない。


いつだって、

いつの間にか、

いや自分からか、

気がつくと椅子取りゲームに参加している。


そうなると理屈は簡単、


「今ある幸せは、

誰かの不幸の上に成り立っているのかもしれない」


価格を安くするために下げられる賃金、

お客様という神様のために心をすり減らす従業員、

あの子のハートを射止めた影にある涙、


そう考えると何事も素直には喜べないな。


「共感」の幅を広げるほど、

高い人間性を認められるけれど、

それとは裏腹にどんどん不自由になってしまう。


周りの幸不幸にばかり敏感になって、

自分のそれを後回しにしてしまう。


そうなってしまったら本末転倒、

何も聖人を目指しているわけではないはず、


「どうしたら幸せになれるのか」


そのためには人と心を通わせることが近道、

だから「共感」するのだ。


あまりにも共感の幅を広げすぎると、

それが自尊心へと変化して、

手に負えなくなってしまう。


「人の役に立つことが自分の存在価値なんだ」


断じてそうではない。

周りに自分の存在価値を委ねてはいけない。

例え、それがどんなに優れたものだとしても、


あなたが何をして、

何を感じて、

どう変わったのか。

あなたにとってそれ以上に価値のあるものはない。


人の不幸を食い物にしようとすることは、

間違ったこと、


だけれども、

人の幸せのために自分を不幸にすることも間違ったこと、


誰かを傷つけることに、

鈍感になってはいけないけれど、

必要以上に敏感だと辛いことばかり、

 

誰かのために行動していても、

心が満たされないならば、

一度立ち止まって考えてみなければならないのかもしれない。


責任は果たすべきもの、

だけどそれ以上のことは相手の自己責任なのだから、


「あなたがいなければ生きていけないの」


そこから始まった関係に、

輝かしい未来が待っているとは思えない。


強かに、

かつ誠実に、

歩みを進めたい。

 

人のことはいい。

自分の幸せのために、

30代はダークサイドに落ちやすい

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みずみずしい将来への希望をいだいた10代まで、

それを形にしようと奮起した20代、

そして大きな決断を迫られる30代、


本田健『30代にしておきたい17のこと』

たまたま書店で目につき手に取った。

それによると30代はダークサイドに落ちやすいみたい。


あまりにも忙しく環境が変わるから、

人生における重要な選択をいくつも迫られるから、

理想と現実のギャップに翻弄されるから、

自分の天井が見えてしまうから、


ある人は、

独立するか、雇われて生きていくか。

結婚するか、一人で生きていくか。

人生の岐路に立つ、

 

ハタチの頃に思い描いた30代の自分はどこへやら、

その体たらくぶりに目を覆いたくなる、

なんてこともあるだろう。


追い詰められると、

それまで飼いならしていたはずの暴力性が顔を出す。

自分にこんな一面があったのかと驚くほどに、

それは少し実感している。


社会で生きる術を身につける代償として、

人は「毒」を貯め込む。

それは身を守るための武器にもなるけれど、

知らないうちに自分のことをも蝕む。


ダークサイドに落ちてしまうと、

それが一気に噴出する。

そうなってしまったらコントロールすることは容易ではない。


いつも毒を撒き散らしているから、

周りを傷つけて、徐々に人が離れていって、

終いには取り返しのつかないことになっている。


飼いならしているうちはいい。

溜め込んでいる「毒」が多いほど、

大抵は「仕事ができる」ように見えるから、


だけれども、

目の前にいるこの人は、

電話口のこの人は、

画面の先のこの人は、

「生身の人間」であることを忘れてはならない。


自分と同じように、

脆く弱い生身の人間、


おそらくそれを忘れないことが、

「毒」を中和する唯一の方法、

 

「社会」の持つ魔力にのめり込んでいく。

体力は低下して健康管理が必要になる。

親も健康ではなくなってくる。

子供に人生の大半を費やすようになる。


どんどん自由が奪われて、

責任ばかり積み重なって、

逃げ場がなくなってしまう。


「毒」を無くすことはできないけれども、

少しでも軽減してあげないと、

気がつかないうちに、

人として大事な機能が麻痺してしまう。


歳を重ねるごとに、

方法を知っていても、

中和できなくなってしまう。


「30過ぎて何やっているんだか」

つい自嘲気味に口をついて出る言葉、


何をやったっていい。

まだまだあきらめたくないのだ。

 

「社会」でもがいて、

「毒」を飼いならすために中和しながら、

「幸せ」の定義を形作り、

それに向けての一歩一歩を確かめるように、

かつ大胆に踏み出す。


近づく実感があれば、

徐々に歩幅は狭まっていくはず、


それが30代なのかもしれない。

 

「助けて、オビ=ワン・ケノービ」

そうならないように「フォースと共にあらんことを」