「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

人類の未来は「寛容」に進んでいく

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今年もまた、

過去最大レベルと言われる台風が来るようだ。


前回の傷も癒えぬまま、

九州の皆さんの心中はいかばかりか。

とても想像の及ぶところではない。


被害が人命に及ばず、

最小限に収まることを祈るばかりだ。


さて、恒例になった酷暑に、

過去最大レベルの災害、

加えて今年は疫病である。


天はどれほど人類に試練を与えるのだろうか。

それとも人類の業に対する報いなのだろうか。


人と人とはコミュニケーション手段を制限されて、

そのつながり方が大きく変わる。


「就活」に「婚活」


人生の岐路に立つ瞬間、

その進む方向、

そして共に歩む人、


人はこれから先、

それらを画面越しで決めるようになるのかもしれない。


「画面越し」というのは気楽だ。


目に映る部分だけを繕えばいい。

ボタン一つでつながりを切ることができる。

「移動時間」は必要ない。


もともとの関係があれば別だけれども、

ある意味では「割り切った関係」なのだ。

これからはそういうシーンが増えるのだろう。


だから人は「時間」を、

「自分のため」に使うようになる。


そして世界も、

「時間」を「自分のため」に使うことに寛容になる。


おそらくそれがスタンダードになるのだ。


昔ならば「災害だろうが会社に行く」

「店を閉めるなんて考えられない」

それが社会人としての評価につながったのだろう。


だけれども、

もはや今はそれが非難される時代だ。

 

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「寛容」


その意味で「人の精神」ってものは、

浄化されていっているのかな。

それとも本質は変わらないのかな。


SNSによって、

少なくとも「表面的」には、

人と人との距離が縮まったものだから、

色んな立場の「痛み」や「苦しみ」「悲しみ」に触れる機会が増えた。 


そして、

「怒り」や「憎しみ」

「嘲笑」や「侮蔑」

そういうものは非難されるようになった。

 

「痛み」には共感して、

「苦しみ」には励ましを送る。

 

意地や見栄やプライド、

身近な人間関係ではそれらが邪魔をするけれど、

誰だって誰かの役に立ちたい。

 

もともと世界はそうできていたのだ。

 

いわゆる「荒らし」

 

多くはサイレントマジョリティだから、

声の大きいマイノリティが目立つけれども、

実際はそういうことを行う人の割合なんて、

5%にも満たないらしい。

調査によっては0.5%とも言われている。

 

ダークトライアドの気質が強く、

自分で自分を認めてあげられないから、

誰かを下に見ることで相対的に自己価値をあげようとする、

そんな一部の特殊な人たちだけなのだ。


人は善悪を評価して、

それにより「パーソナリティ」を形作る。


私がよく使う表現だけれども、

「パーソナリティ」はどんどん肥大化している。


おそらく昔はもっと、

「自分」について考える機会は少なかったのだろう。


だから「社会」や「規約」

そういうものが絶対視されて、

それに準ずることがステータスだった。


「善悪の基準」が明確な分、

「統率」は取れるけれど「柔軟性」は失われる。

 

だからレールから外れた人は「異質」

そういう扱いだったのだ。


だけれども時代は変わった。


平日の昼間にご主人が出歩いていても、

「テレワークかしら」だなんて思われたり、


家事や育児をプロにお願いしても、

「共働きで大変なのね」と励まされたり、


類を見ない台風の最中に出勤しようものならば、

「何を考えているんだ」って非難される。

 

有事の際に、

店がやっていなくても、

公共交通機関が動かなくても、

「そりゃそうだよね」って、

当たり前のように受け入れられているのだ。


「人類の進む方向」


悲観的なところばかりが目立つけれど、

案外「人は他人に優しくなっている」のかもしれない。

いや、元々そうでそれが目立つようになったのかな。


「人類の未来に希望を持つ」


なかなか難しいことだけれども、

私の精神的な「軸」に加えたいと考えているテーゼだ。


まだまだ「覚悟」は足りないけれど、

そう思って生きる「覚悟」を持てたならば、

おそらくどれだけ裏切られたとしても、

「希望」を持ち続けることができるのだろう。

 

人間だって捨てたもんじゃないよ。

 

世界が荒れれば荒れるほど、

人は人に優しくなれるんじゃないかな。

人の優しさが目立つようになるんじゃないかな。

 

未来は希望で溢れている。

そう信じて生きたい。

 

「人間」は生物として意味のわからない存在

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「繁殖」するまでにたくさんの理由をつける。

その時点で繁殖力は大いに制限される。


つがいになるまでにかかる時間は無駄に長く、

いくつものプロセスを経てようやく一緒になる。

大抵はそのプロセスの間にうまくいかなくなる。


うまくいくまでに生物として、

繁殖力のピークを過ぎていくのに、

相手に望むものばかりが大きくなる。


需要と供給の乖離は広がって、

つがいのできる確率は下がる一方だ。


つがいになったらなったで駆け引きを続けて、

道具を使って進んで繁殖を制限する。


多くの生物はさ。


繁殖期を迎えると、

相手は選ぶのかもしれないけれど、

本能に従って繁殖する。

もちろん道具を使って制限することなんてない。


そもそも行為自体がさ。

「繁殖を目的としない行為」自体がさ。

本当に必要なものなのかな。


「本能」からの司令を受けて、

したくなる。

だけれども「理由」をつけて制限する。


避妊が違法になったとしたら、

この世の中はどのように変わるのだろう。


少子化は一気に解消されるのかな。

それとも行為自体をあまりしなくなるのかな。


「理性」と「本能」

今の人類はそのどちらが勝つのだろうか。

 

だいぶ「理性」が幅を利かせてきたけれど、

おそらくまだまだ「本能」が勝つのだろう。

 

「いつ死ぬかもわからない」

 

「野生の世界」はそんな生存競争だ。

かたや「人間の世界」では、

命を保証されていることがほとんどだ。

 

少なくとも繁殖に適する年代のうちは、

命を失うことなんて多くの人が考えないだろう。

 

なんだかんだで、

人は「希望」を糧に生きている生き物、

心のどこかで自分の将来が光り輝くことを信じている。

 

だから「いつかでいい」って先延ばしするのだ。

そして「いつか」と思っているうちに、

ボーナス期間は過ぎてしまうのだ。

 

「今は夢中になっていることがある」

「生活を変えたくない」

「もっといい相手が現れるかもしれない」って、

「理由」をつけて、

どんどん後回しにするのだ。


結局人間はさ。

「生物」としては、

説明のつかない存在なのだ。


「理性」と「本能」の間で折り合いをつけてさ。

「繁殖を目的としない行為」を繰り返す。


コミュニケーションの一種?

優秀な異性を繋ぎ止めるため?

ただ単に欲求を満たすため?

それともお金を稼ぐため?


行為そのものの目的が変わってしまったのだ。

 

「繁殖を目的としない行為」


そこに生まれる価値、

それは経験のない私にはわからないことだ。

 

「調子の悪い日」に気をつけるべきこと

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何も女性の特権ではない。

男にだって「調子の悪い日」があるのだ。


ちょっとしたことでイライラしたり、

些細なことが許せなかったり、


私の場合は睡眠との関係が深いのだろう。

単純に「睡眠時間」ではないと感じた。


睡眠時間を多くとった翌日でも、

調子の悪い日は悪い。


そうなると「質」なのか。

だけれどもそれにこだわりだすとキリがない。

こだわりが逆効果になることもある。


「無意識」が関わってくるから、

何気ない出来事であっても脳は重く捉えていることもある。

 

そうなるとその情報処理のために、

睡眠時のリソースを奪われるのだろうか。

目覚めが悪かったりもする。


結局は「質」をコントロールすることは難しい。


だから調子の悪い日でも、

「やるべきことだけはしっかりとこなす」


後のことはどうでもいいのだ。

それだけこなしてその日を逃げ切ればいい。


「調子の悪い日」


病気でもない限りは、

大抵はそんなに長くは続かない。


「勝負の日」と重なった時、

その時だけは覚悟を決めないといけないな。


無理をしすぎてはいけないけれど、

人生の楔を打ち込むだけの結果は残さなければならない。


でもまあ、

ダメだったらダメで仕方がない。


そうやって誤魔化しながら、

日々をつないで生きている。


つい最近のこと、


「調子の悪い日」に周りのミスが重なって、

感情的になってしまった。


それによって、ある人との関係が悪化、

リカバリに大きな手間がかかってしまう。


感情的になって良いことはない。


普段は温厚なつもりだが、

私は怒ると「圧」で反撃させない雰囲気を作りながら、

「理詰め」で外堀を埋めていく。


一度、火がついてしまうと、

相手の非を責め立てて、

要求を通すまで容赦はできないのだ。


普段とのギャップに面をくらい、

その後の私は「腫れ物を触る」ような扱いになる。

リカバリが大変なのだ。

 

大抵ぶつかるのは、

私よりも立場が上の人間だ。


気をつけないといけないな。


普段はグッと堪えられることでも、

調子によってだいぶ臨界点は変わってくる。


しかもそういう時に限って、

イライラが重なったりするのだ。


自律神経がバカになって、

こんな体になってしまったのだから、

自覚しないといけないな。


「謙虚」に「爽やか」に、


そう思ってはいるけれど、

なかなかコントロールすることは難しい。


「自尊心」が低い時ほど、

人の役に立つように振舞うべきなのに、

どうも逆に出てしまう。

 

「調子の悪い日」

 

やるべきことを淡々とこなしてやり過ごす。

感情的には決してならないと心がける。

 

自分の調子が悪いことは、

周りの人には関係ない。


まだまだ甘いのだ。


生きている限り、

「悩み」は尽きない。

 

ヨルシカのアルバム『盗作』が名盤だと思う

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「夜行性」


ファンがそう呼ばれる3組のアーティストたち、


「YOASOBI」

「ずっと真夜中でいいのに。」

そして「ヨルシカ」


グループ名に「夜」を入れていることや、

その少しダークな作風からそう呼ばれているようだ。


前にも記事にしたけれど、

私の推しは断然「ヨルシカ」だ。

tureture30.hatenadiary.jp

 

他の2組も独特の世界観があって面白い。


だけれども「ヨルシカ」は、

「心の叫び度」と言うべきだろうか。

「心のさらけ出し方」が群を抜いてぶっ飛んでいる。


音楽に限らずアーティストというものは、

少なからず「心をさらけ出すこと」で作品を生み出す。


そこに「守り」はない。

だから知名度がないところからでも、

「共感」を生み出すのだ。

いわゆる「刺さる」という表現だろう。


そこからアーティストの「背景」に興味を持ち、

調べることで親和を深めていく。


そうやって「ファン」というものが生み出される。


その意味で私には、

去年の「あいみょん」に続き、

今年はこの「ヨルシカ」が刺さった。


続けて「刺さる」ことは珍しい。


「いいな」とは思っても、

刺さるアーティストは少ない私、

少し前の「ゲス乙女」以来だろうか。

 

どうやら型にはまらないぶっ飛んだ表現、

私にはそんなアーティストが「刺さる」ようだ。


さて、表題作のアルバム、

これは名盤だ。


タイトルが「盗作」って時点で、

かなりぶっ飛んでいる。


さらにアルバム中の表題曲『盗作』


少しネタバレをすると、

「自分は曲を盗んだ」という独白だ。


「盗んだ曲をチヤホヤするファンたちは何もわかっちゃいない」

「名曲を盗んだのだから売れるのは当たり前だ。実力じゃない」

みたいな葛藤を綴る。


実話かどうかは知らないけれど、

このテーマで曲を書くこと自体がぶっ飛んでいる。


代表曲『だから僕は音楽を辞めた』にも通じるけれど、

楽曲を担当するn-bunaさんは、

ものすごく苦しみながら音楽を作り上げているのだろう。


いや、「作り上げる」という限定的なものではない。

ものすごく苦しみながら「音楽と共に生きている」のだろう。


ボーカルsuisさんの絞り出すような声と相まって、

曲からはそれをヒシヒシと感じる。


多くの場合は売れるにしたがって、

作風が「人間賛歌」に変わっていく。

 

毒が抜けてしまうのだろうか。

「社会の求める形」にフィットせざるを得なくなるのだろうか。

 

ミスチル」は活動休止をしてから、

自らを納得させるように徐々に作風が変わっていった。

 

あいみょん」の表に出る曲は、

もはやほとんどそんな感じだ。

 

「人間賛歌」


それが悪いわけではない。

むしろその方が広く親しまれるのだろう。


それも一つのカタチ、

というよりも、それがスタンダードだ。


だけれども「ヨルシカ」

彼らがそうなる姿は想像できない。


どこかで作風は変わるだろう。

 

CMでも流れるようになった。

映画とのタイアップもした。

これからメディアへの露出は増えるだろう。

もしかしたら顔を出すこともあるのかもしれない。

 

彼らがどのように変化していくのか。

そしてその変化に対してどのように向き合うのか。

 

今からとても楽しみだ。

 


爆弾魔(cover)

 

思想犯

 

レプリカント(cover)

 

花に亡霊

 

盗作

 

 

色々なことがやけにめんどくさく感じる

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割と色々なことに首を突っ込んで、

人生が動いていないと気の済まない質だ。

 

停滞感を嫌って、

状況打破のために色々と動いてきた。


ところがここ最近、

とてもおっくうだ。

 

「生きていてもつまらない」

「良いことなど何もない」

 

実際はそんなこともないのだろうけれど、

そんなことばかりを感じている。


周りばかりがどんどん進んでいき、

気が付くと取り残されているようだ。


周りと比べたって仕方がないのだけれども、

どうしたって目に入る。

私には手に入らないものばかりに囲まれているから、

その輝きを見て見ぬ振りなどできないのだ。


私には中途半端にチャンスが巡ってくるから、

だから本気になれない。


「もう後がない」って、

何が何でも掴み取りに行くような気概はない。


中途半端に掴みに行って、

中途半端な気持ちしか湧かなくて、

迷っているうちにチャンスを逃して、

そして中途半端に傷つくのだ。


その繰り返し、


私は「結婚」に何を求めているのかな。

その前に「恋愛」に何を求めているのかな。

 

何かを求めていることは間違いない。

だけれども何を求めているのだろう。


「自尊心の修復」かな。

「手に入れたいって欲望を満たすこと」かな。

それとも「寂しさを埋め合わせたい」だけなのかな。

 

結局、自分のことしか考えていないのだ。


もう心躍るような気持ちで相手を好きになって、

相手からも同じように好いてもらって、

去年まではそういうのも信じられていたけれど、

もはや疲れてしまった。


自分の体調と向き合って、

その範囲内で何となく命をつないで、

ワクワクすることもなければ、

ドキドキ胸が高鳴ることもない。


「自分にとって世界で一番素敵な人がいるはず」


うまくいかなかった恋の慰めに、

そんなことを言い聞かせていた時期もあった。

 

だけれども、

もはやそんなことなど信じちゃいないのだ。


「落としどころ」を探しているのだろう。

 

うまく自分を納得させてあげられるような、

そんな「落としどころ」


年を取ると経験がなくてもそうなっていくのかな。


昔はもっと確固たる「理想」のようなものが、

そういう大事にしていたものが、

あったような気がしたけれど、

どうやら私の中でそれはドロドロに溶けてしまったようだ。

 

もはや固形ですらない。

ただそのエッセンスが過去を懐かしむように時折顔を出す程度だ。

 

その度に感じる罪悪感、

「どうしてこうなってしまったのだろう」って、

思い返すたびに胸が痛むのだ。


「なんとなく」

ただ「なんとなく」に当てはまるような相手、


結局それを求めるのならば、

若いうちからそうしておけば良かったと思う。


賢い人は早いうちから割り切って、

条件のいい相手を捕まえていくのだろうな。

 

自意識ばかり肥大化した超サイヤ人

婚活市場なんてそんな人ばかりだ。

 

「まるで超サイヤ人のバーゲンセールだな」

 

ブルマさんと早いうちに「なんとなく」一緒になった、

ベジータさんのそんな声が聞こえてくる。


もはやバーゲンセールだ。

私には何割引きの値札が貼られているのだろう。

 

 

8月を振り返って

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いつもよりも長く居座った、

そんなわがままな今年の梅雨、


それが終わりを告げた途端に、

間を置かず主役に躍り出る厳しい猛暑、


「梅雨」に焦らされたものだから、

「待ってました」とばかりに照り付ける日差し、


それに悪戦苦闘しながらも、

空を見上げると青さに包まれて、

「罪悪感」を消してくれるような、

そんな8月だった。


野球に行ったのが大きかった気がする。

久々のイベントだ。

「発散する場所がある」って大事なのだと感じる。


支出は少し増えた。


整体の回数券と野球、

それにいくらか本を買ったからだ。


周りで出産が3件あった。

ますます周りと私の住む世界が変わっていく。


7月の後半あたりから、

だいぶ体調を崩していたけれど、

今は持ち直したように思う。


たまに「ズキッ」とする嫌な頭痛がある。

それだけは気になるのだけれども、


また一つ乗り越えたのかな。

辛い時期を乗り越えたのかな。


夏が終わりに近づいていく。

短かい夏だ。


変化を求めている私、

徐々に変わっている実感はある。


「穏やか」だけれども、

どこか「鋭く」変わっていく。


私は過去を捨てた。

非情に切り捨てた。


もはや歩み寄る余地はない。


心の中から徹底的に排除した。

私の心を守るために、


私は「理想」を捨てた。

そして楽になった。


9月、

すみれSeptember Loveの季節だ。

 

 

 

月末になってまた少し調子を崩しているな。

ジェットコースターのような8月か。


暑さが和らげばランニングを再開したい。

 

「騙される人」と「騙されない人」

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世の中にはわかりやすいステマが横行している。


SNSでの拡散」なんていう、

一発逆転のビッグチャンスが広がっているものだから、

とりあえずの方法としてそういうことをしてみるのだ。


その結果として、

世論を意図する方向にもっていければ万々歳だ。


軽妙な営業トークや、

特別感を煽るようなダイレクトメール、


中身を紐解いてみると、

そのほとんどは「利」のあるものではない。


「無駄なこと」は、

市場原理によって淘汰されていくはずだから、

それらが当たり前のように横行しているということは、

「騙される人」が一定数いるということだろう。


「人の心」なんてものは千差万別だ。

「考え方」なんてものも無数にある。


人は「経験」を信仰する生き物だから、

負ってきた「傷」や、掴み取った「喜び」


そういうものを材料にして、

「価値観」を作り上げる。


「騙される人」


今まで「騙された経験のない人」なのかな。

もしくは「騙されていてもその自覚のない人」

あるいは「騙された経験を信仰の対象にしない人」

だろうか。


「痛み」


それは「傷」を忘れないための自己防衛本能だ。

そこからさらに傷つかないために「痛み」を発し続ける。


「自分の痛みに鈍感な人」


「傷ついていること」に気が付かないのだ。

それどころか自分から傷つきに行く。

「生きている実感」を感じることができないから、


「痛み」を血肉にする作業ってさ。


大きな苦しみが伴うもの、

それに血肉にしたところでさ。

「痛み」が消えてくれるわけではない。


時が経つにつれて、

その間隔は広くなるのかもしれないけれど、

事あるごとに思いだしては「ズキズキ」と痛む。


「私を忘れないで」って、

いつまでも「ズキズキ」と痛むのだ。


「騙されない人」


いつまでも「痛み」を感じ続けている人なのかな。


生きていればさ。

「傷」はどんどん増えて、

その一つ一つが事あるごとに「痛み」を発してくるけれど、

その「痛み」と共に生きることが「人生」なのかな。


この「痛み」は私だけのもの、

 

その「痛み」を人に伝えることはできるけれど、

全く同じに感じてもらうことはできない。


消えることのない「痛み」を感じながらも、

「心から信頼できる人」と共に寄り添い、

なんだか「むずがゆくて」「痛気持ちいい」


そんな人生でありたい。


「痛み」がクセになってしまわないように、

気をつけないといけないけれど、