世の中にはわかりやすいステマが横行している。
「SNSでの拡散」なんていう、
一発逆転のビッグチャンスが広がっているものだから、
とりあえずの方法としてそういうことをしてみるのだ。
その結果として、
世論を意図する方向にもっていければ万々歳だ。
軽妙な営業トークや、
特別感を煽るようなダイレクトメール、
中身を紐解いてみると、
そのほとんどは「利」のあるものではない。
「無駄なこと」は、
市場原理によって淘汰されていくはずだから、
それらが当たり前のように横行しているということは、
「騙される人」が一定数いるということだろう。
「人の心」なんてものは千差万別だ。
「考え方」なんてものも無数にある。
人は「経験」を信仰する生き物だから、
負ってきた「傷」や、掴み取った「喜び」
そういうものを材料にして、
「価値観」を作り上げる。
「騙される人」
今まで「騙された経験のない人」なのかな。
もしくは「騙されていてもその自覚のない人」
あるいは「騙された経験を信仰の対象にしない人」
だろうか。
「痛み」
それは「傷」を忘れないための自己防衛本能だ。
そこからさらに傷つかないために「痛み」を発し続ける。
「自分の痛みに鈍感な人」
「傷ついていること」に気が付かないのだ。
それどころか自分から傷つきに行く。
「生きている実感」を感じることができないから、
「痛み」を血肉にする作業ってさ。
大きな苦しみが伴うもの、
それに血肉にしたところでさ。
「痛み」が消えてくれるわけではない。
時が経つにつれて、
その間隔は広くなるのかもしれないけれど、
事あるごとに思いだしては「ズキズキ」と痛む。
「私を忘れないで」って、
いつまでも「ズキズキ」と痛むのだ。
「騙されない人」
いつまでも「痛み」を感じ続けている人なのかな。
生きていればさ。
「傷」はどんどん増えて、
その一つ一つが事あるごとに「痛み」を発してくるけれど、
その「痛み」と共に生きることが「人生」なのかな。
この「痛み」は私だけのもの、
その「痛み」を人に伝えることはできるけれど、
全く同じに感じてもらうことはできない。
消えることのない「痛み」を感じながらも、
「心から信頼できる人」と共に寄り添い、
なんだか「むずがゆくて」「痛気持ちいい」
そんな人生でありたい。
「痛み」がクセになってしまわないように、
気をつけないといけないけれど、