「そちら側」と「こちら側」
目には見えない「境」があるのだ。
だけれども、
それは目に見えないだけで、
そこかしこに散らばっている。
「たった一本の線」
隔てるものは、
あってないようなものだ。
だから、
ふとした拍子にその線を越えてしまう。
越えるために力を加える必要はない。
ただ何かの弾みで越えてしまうのだ。
多くの人は「死」というものを、
何か特別なことのように捉えているけれど、
裏を返せば「生」だって特別なことだ。
「輪廻」というものが存在するのならば、
「生」よりも「死」のほうが、
期間が長いのかもしれない。
だから「死にたい」って言葉、
誰だって一度や二度は思うだろう。
朝昼晩って毎日何度も思う時期だってある。
「軽く死ねる」だなんて、
ファッションみたいな使い方をしたりもする。
その言葉に対してさ。
そんなに過敏にならなくてもいいんじゃないかな。
「死にたい」って言葉がさ。
心の支えになることだってあるんだよ。
「死にたい」って言葉がさ。
「死にたい」って思っている自分に残してあげる、
最後の逃げ道なのかもしれない。
辞表を忍ばせて出勤するサラリーマン、
その精神安定作用と同じでさ。
逃げ道があるから頑張れることもあるんだよ。
「人は強く儚い生き物」
どんなに弱音を吐いたところで、
どんなに自分を卑下したところで、
どこかで自分に「期待」しているのだ。
「未来は良くなるかもしれない」って、
どこかで期待しているのだ。
「生きていれば良いことがある」
そんな安易な慰めは私には言えないけれど、
例え良いことがなくたってさ。
「良いことがあるかもしれない」って、
そう思って生きること自体に価値があるんじゃないかな。
「期待を裏切られること」
そのことに慣れてしまえばいい
いちいち傷ついてやるからさ。
「期待すること」が怖くなるんだよ。
うちの子、
亡くなった実家の愛犬なんてさ。
私が何かを食べているとさ。
人間のご飯なんて一度ももらったことはないのにさ。
いつだって期待に胸を膨らませた表情で、
飛びついてきたりなんかしてさ。
「ちょうだい」ってねだってくるんだよ。
今まで一度ももらったことがなくたってさ。
「これはあげられない」って何度伝えたってさ。
何度も何度もさ。
「今度はもらえるかもしれない」ってさ。
期待して寄ってくるんだよ。
人間だって、
そういう生き方でいいんじゃないのかな。
胸の奥底に微かに光る「期待」にしがみついて、
必要以上に努力するでもなく、
必要なことをさぼるでもなく、
ちょうどいいくらいにチューニングしてさ。
「いつかは良いことがあるかもしれない」って、
期待に胸を膨らませながら生きていればいい。
どれだけ報われなくたって、
私は「期待すること」を止めたくはない。
きっとそれが「生きる」ってこと、