「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

希死念慮

f:id:tureture30:20200827202625j:image

 

「そちら側」と「こちら側」


目には見えない「境」があるのだ。


だけれども、

それは目に見えないだけで、

そこかしこに散らばっている。


「たった一本の線」


隔てるものは、

あってないようなものだ。


だから、

ふとした拍子にその線を越えてしまう。


越えるために力を加える必要はない。

ただ何かの弾みで越えてしまうのだ。


多くの人は「死」というものを、

何か特別なことのように捉えているけれど、

裏を返せば「生」だって特別なことだ。


「輪廻」というものが存在するのならば、

「生」よりも「死」のほうが、

期間が長いのかもしれない。


だから「死にたい」って言葉、


誰だって一度や二度は思うだろう。

朝昼晩って毎日何度も思う時期だってある。


「軽く死ねる」だなんて、

ファッションみたいな使い方をしたりもする。

 

その言葉に対してさ。
そんなに過敏にならなくてもいいんじゃないかな。


「死にたい」って言葉がさ。

心の支えになることだってあるんだよ。


「死にたい」って言葉がさ。

「死にたい」って思っている自分に残してあげる、

最後の逃げ道なのかもしれない。


辞表を忍ばせて出勤するサラリーマン、

その精神安定作用と同じでさ。

逃げ道があるから頑張れることもあるんだよ。


「人は強く儚い生き物」


どんなに弱音を吐いたところで、

どんなに自分を卑下したところで、

どこかで自分に「期待」しているのだ。


「未来は良くなるかもしれない」って、

どこかで期待しているのだ。


「生きていれば良いことがある」


そんな安易な慰めは私には言えないけれど、

例え良いことがなくたってさ。


「良いことがあるかもしれない」って、

そう思って生きること自体に価値があるんじゃないかな。


「期待を裏切られること」

そのことに慣れてしまえばいい


いちいち傷ついてやるからさ。

「期待すること」が怖くなるんだよ。


うちの子、

亡くなった実家の愛犬なんてさ。


私が何かを食べているとさ。

人間のご飯なんて一度ももらったことはないのにさ。


いつだって期待に胸を膨らませた表情で、

飛びついてきたりなんかしてさ。

「ちょうだい」ってねだってくるんだよ。


今まで一度ももらったことがなくたってさ。

「これはあげられない」って何度伝えたってさ。


何度も何度もさ。

「今度はもらえるかもしれない」ってさ。

期待して寄ってくるんだよ。


人間だって、

そういう生き方でいいんじゃないのかな。


胸の奥底に微かに光る「期待」にしがみついて、

必要以上に努力するでもなく、

必要なことをさぼるでもなく、

ちょうどいいくらいにチューニングしてさ。


「いつかは良いことがあるかもしれない」って、

期待に胸を膨らませながら生きていればいい。


どれだけ報われなくたって、

私は「期待すること」を止めたくはない。


きっとそれが「生きる」ってこと、

 

つぎはぎ人間

f:id:tureture30:20200829121209j:image

 

「この価値観は素晴らしい」

「この考えは理想的」

「この人が言うならば間違いない」


どんどんどんどん膨らんで、

どんどんどんどん大きくなれ、


何があっても対応できるように、

どんな困難にもビクともしないように、


どんどんどんどん膨らんで、

どんどんどんどん大きくなれ、


そうやって集められた「言葉たち」


片っ端から飲み込んで、

もはや味もわからない。


食べて、食べて、食べ続けて、

いつの間にか「食べること」が目的になった。


「あれでしょ。知っている」

「そんなことも知らないの?」


「知っていること」が価値になって、

「知らないこと」を嘲るようになった。


みんなが知らないこんなことやあんなこと、

僕はたくさん知っている。


「だから」僕はすごいんだ、

「だから」僕は優れているんだって、

「だから」の中身には目を向けないでさ。


「歩くアーカイブ」だなんて呼ばれるたびに、

鼻を高くして「ピノキオ」


「夢」や「理想」の話だって?


何でも教えてやるさ。

僕に何でも聞いてくれ、


君の「夢」は何かって?

君の「理想」は何かって?


それはそう「あれ」だよ。

ユングが分析しているやつだ。


そうじゃないって?


あれ、おかしいな言葉が出てこない。


あれだけ言葉をため込んで、

何があっても対応できるはずなのに、


どうしてだろう。

言葉が出てこないんだ。

 

誰かの言葉ばかりを集めてさ。


それをつなげただけで満足して、

自分の生き方には還元しない。


ただの「ハリボテ」

中身は「スカスカ」


頭でっかちなだけの、

そんな「つぎはぎ人間」

人は理解するために「名前」をつけたがる

f:id:tureture30:20200826224237j:image

 

ある意味でこの記事は「リライト」だ。

だいぶ前にこういう記事を書いた。

 

tureture30.hatenadiary.jp

 

これは私の実感であり、

パニック障害を乗り越えるための心の支えでもあった。


昨今「発達障害」にスポットが当たり、

その「生きづらさ」を主張したものが目に付く。


当の本人も「もっと早く診断されたかった」

そう主張することが多いようだ。


「自分探しの旅」

「何者かになりたい」

「自分が何者かを知りたい」

 

雑誌やニュースの特集として、

そのような記事が紙面に踊る。

パーソナリティが肥大化した時代、


人は理解できないものが怖いのだ。

だから「名前」をつけたがる。


だけれども「名前」を付けたところで、

「自分」が「自分」であることに変わりはない。


明らかな病変があるものならばともかくとして、

「精神的な特性」なんてさ。

100人いれば100通りのものがある。


だから「自分」になるということ、

どのような不甲斐ない自分であっても、

それを受け入れる覚悟、


そういうものが必要なんじゃないのかな。


「名前」を付けて安心する。

 

それが大事な時期もあるけれど、

それはゴールではない。

 

それだけで終わってしまったら、

いつまで経っても先には進まない。


そして「社会」に対して、

集団で配慮を求めるようになるのだ。


「社会」と折り合いをつけることは大事だけれども、

「社会」にばかり責任を押し付けたところで、

何も変わらないのだ。


「変われない部分」はもちろんある。

だからと言って、

「変わらない」という選択肢はない。


だから「名前」を付けただけでさ。


それを盾にしてさ。

「〇〇グループの私」って、

それを演じる必要ってあるのかな。


パニック障害

 

その言葉は、

私にとっては「言語化の道具」に過ぎない。

医師からはそのように診断されたから、

とりあえずわかりやすいように「ラベル」にしているだけだ。


私の症状は、

一般的なそれとはずいぶん違うようだし、

「不安神経症」の類でも、

「全般性」のそれに近いのかもしれない。


私も随分と調べた。

 

自分をラベル付けするためにさ。

毎日毎日、暇さえあれば自分の症状を調べていた。


だけれどもいくら調べたところでさ。

自分の症状とまったく一致するものは、

どこにも無かった。


だからこの病気、

いや、病気かどうかもわからない。

私に起きたこの「現象」をさ。


唯一無二の「自分病」と名付けた。


結局は言語化するために名前を付けるのだけど、

フォーカスするのは「病気」ではなく、

「自分」なのだ。


何かに所属することで安心しても、

根本的な解決にはならないんじゃないかな。

もちろんそれが「必要な時期」は否定しない。

 

だけれども、

自分の足で立てるようになったらさ。

自分の足で立てそうなところまで来たらさ。


「自分」になる覚悟が大事なんじゃないかな。


どんなにひどい目に合って、

誰かを責めたところで、

この人生って、

最後は「自己責任」なのだ。

 

どこまで行っても付いてくる。

「人生」ってやつ、

 

生きている限りはさ。

そいつと向き合っていかなければならないんだよ。


そう思えるだけの強さは、

いつまでも持ち合わせていたいな。

 

「5年間」という時間について考えさせられた作品

f:id:tureture30:20200826225705j:image

 

Twitterで投稿されていたある漫画、

 

はてなブックマークでもトップに載っていたので、

ご覧になった方も多いだろう。


高級デリヘル嬢が客との情事の最中に、

120分のタイムリープを繰り返すというもの、

そしてそのタイムリープを5年分繰り返した。


これ以上は内容に言及するのは控えておく。


一つの題材に様々なスパイスで味付けした、

そんな素晴らしい作品なので、

是非とも読んだいただきたい。


この作品を読んで、

様々感じるところはあったけれども、


「5年間」

そこに焦点を当てたい。


完全に自由に使えて、

おまけに年を取らない。


ドラゴンボールでいう「精神と時の部屋」だ。

あそこでは下界の1日で1年間の時が過ぎる。

ただし人生で2日しか入れないんだっけか。


この漫画では「5年間」

しかも歳を取らない。

さらに現実からのロスは1日もない。


そんな時間が、

「5年間」もあるとするならば、

いったい何に使うか。


タイムリープだ。

周りの記憶には残らないのだ。

ただループされるだけ、

ループを抜けられるかはわからない。


欲望の限りを尽くすだろうか。

それともループを抜けることを信じて、

その後の糧にするだろうか。

こういう時に人間性が試されるのかもしれないな。


5年前の私、

おそらくバイタリティという面では、

最も充実していた頃だ。


大抵のことは「何とかなる」と思っていた。

「なんとかできる」という根拠のない自信があったのだろう。


ちょうど仕事で転機があり、

長期の休みをとれた。


一人で海外を旅行したのもこの時期、

1週間ほど宿も予約せずに、

行き当たりばったりで国内を練り歩いたのもこの時期、


「一人でできることはやりつくしたな」

そう思ったのがこの時期だろう。


そして翌年にパニック障害を発病する。

それで世界の見え方は大きく変わった。

その2年後には、

「下手したら死ぬ」と言われた病気にもかかった。


5年前の私、

周りから見たらそうは変わらないのかもしれない。

だけれども自分の感覚では今の私とは全くの別人だ。

 

だからこのブログでは、

「今の私」と「前の私」

そういう表現を使う。

 

f:id:tureture30:20200826231137j:image


これから先の5年、

私はどのように世界と関わっていくのだろう。

今の私とは全くの別人になっているのだろうか。

 

「未来の私」

 

もう一度くらいは、

価値観の変わるような出来事がある予感はする。


5年間、

改めて長い期間だと実感する。

 

5年前は、

愛犬は元気に駆け回っていた。

姪も甥もまだ生まれていない。

そして私はまだ私の可能性を信じていた。


20代の私、

揺るがぬ信念のようなものがあった。


「その通りに生きていれば間違いない」って、

そう思えるほど確かなもの、


だけれども、

それだけではダメだった。


そうして色々なものを手放して、

時には手に入れて、

今の私にたどり着いたのだ。


手に入れ続けた20代、

手放すことのほうが多かった30代、

少なくともこれまでは、


これからの5年間、

私はどう生きるのだろう。


ワクワクはしない。

どちらかといえば不安のほうが大きい。

だけれども命ある限りは歩み続けるしかない。


時間がループすることなど、

どれだけ願ったところで、

現実には起こらない。


この一日を踏みしめて、

未来への糧にするのだ。


「バイタリティが欲しい」


無理のできない体になってしまったものだから、

そう感じることは多いけれど、

それは今だから思うこと、


人は掌中の幸せには気が付かないのだ。


欲しいものばかりに目を向けて、

それが手に入らないから「満たされない」

人生の多くはその繰り返しだ。


「満たされたい」

そればかりを願っている。

 

「満たされない自分」をいつまでも監視して、

「やっぱり満たされない」ってさ。


いつまでも、いつまでも、

「満たされない自分」にしがみ付く。

 

満たされてしまったら、

そこで終わってしまうからさ。

 

何かを見つけ出して、

「満たされない」ってどこか嬉しそう。

 

そしてそれを続けることでさ。

人生の最後の最後に満たされるのだ。


きっとそういうもの、

 

私はあと何回、

5年間を積み重ねられるのだろう。

 

藤井聡太二冠に学ぶ「生きる姿勢」

f:id:tureture30:20200826061403j:image

 

このお方は本当にすごい。

「藤井くん」が瞬く間に「藤井二冠」になってしまった。


その実力もさることながら、

言葉の端々に感じる「謙虚さ」であり、

深い洞察から来るのであろう「生きる姿勢」

目を見張るものがある。


おそらく本人は、

「努力している」という感覚は微塵もないのだろう。


二冠となった際のインタビューで、

印象的な一言があった。


記者からの、

「この結果に対して自分へのご褒美はありますか?」


そんな質問に対して、

「自分にとって思った以上に、この上ない結果だったので、

自分でご褒美というのはあまり考えていません」


素晴らしい回答だ。


少し前のインタビューではこんな回答もあった。


記者からの答えにくい一手、

「将棋の神様に会う機会があったらお願いしたいことは?」


そんな質問に対して、

「将棋の神様というものが存在するならば、

一局お手合わせを願いたいです」


富も名声も求めてはいない。

天に行く末を委ねるわけでもない。


ただ「強くなりたい」

そんな気持ちを率直に表す回答だ。

 

「生きがい」


おそらく藤井二冠にとっては、

「己の棋力を高めること」が「生きがい」なのだろう。

だから結果に気持ちを動かされない。


弱冠18歳にして、

これほどまでに人として揺るがない。

加えて自意識に固執するでもなく、

「謙虚さ」を持ち合わせている。


もはや「悟り」の境地だ。

 

f:id:tureture30:20200826061807j:image

 

一転して漫画の話になるけれど、

思い出すエピソードがある。


長らく少年ジャンプで、

絶賛休載中の『HUNTERxHUNTER』だ。


その中のキメラアント編、


知能を持ち、人を捕食する未知の生物キメラアントの「王」が、

人類を統べるべく兵法を学ぶための余興として、

ボードゲームに目をつける。


人知を超えた学習能力を持つ「王」の前に、

囲碁と将棋の世界王者は数局で敗退を喫する。


ところが「軍儀」と呼ばれる、

漫画オリジナルの将棋に似たゲーム、

その世界王者は「コムギ」という目の見えない少女だ。


人知を超えた「王」だが、

「コムギ」とは何度対戦しても勝ち筋が見えてこない。


そこで「王」は「コムギ」の心を乱すべく、

次の対局で自分に勝てば「望むものをなんでも与える」

その代わりに負ければ「お前の右腕を引きちぎる」と脅す。


それに対する「コムギ」の返答はこうだ。

「負けたら自分の命を差し上げます」


目の見えない彼女は「軍儀」以外に取り柄がなく、

貧しい家族の中では足手まとい。

だから一度でも「軍儀」で負けたら死ぬと決めている。

そういう理由だった。


彼女にとっては、

軍儀」が生きる目的のすべてなのだ。


その回答を聞いた「王」は、

「コムギ」の望むものに「王の命」を想定していなかったと、

己の駆け引きを恥じて自らの右腕を引きちぎる。


それを好機にハンターたちは、

王討伐の機会を得る。

そんな本筋につながっていく。


この「コムギ」のエピソードは極論だ。


だけれども「負けたら命を絶つ」

それくらいの覚悟で一つのものに人生を懸ける。


そういう姿勢は、

藤井聡太二冠に通じるものがあるんじゃないかな。


「己の棋力を高めること」


おそらくそれに人生を懸けているのだろう。

だからどこまで行ったとしても驕ることはない。


「飽くなき向上心」


ある意味では人生を質に入れる行為だ。


だけれどもそれに「身を委ねる強さ」

そこに生まれる輝きは美しい。


一つのものに人生を預けることを恐れて、

世界を俯瞰することばかりに気を取られていたけれど、

どこかで何かを選択しないといけないのかな。


藤井聡太二冠」


これから先の未来、

どのような歩みを進めていくのか。


一人の人間として、

とても興味深い。

 

「直感」に身を委ねる強さ

f:id:tureture30:20200825062804j:image

 

イケメンの友人の話、

 

少し前に結婚していて、

最近子供が生まれたらしい。


奥さんとの馴れ初めは、

「知人の紹介」


初対面の時、

正直、奥さんの容姿は全く好みではなかったとのこと、


だけれども、

何か直感めいたものがあったらしい。


「この人と結婚するな」ってやつ、


だから相当悩んだみたいだけれど、

しばらくしてから、

意を決してデートに誘ってみたようだ。


友人は「そうだっけ?」

だなんて言っていたけれど、


奥さんの話では、

顔合わせから誘うまでに結構な日にちが経っていたらしい。

だから「この人と縁があるとは思っていなかった」そう言っていた。


私も何度か奥さんにも会っているのだけれども、

この夫婦、お互いに気を使わない仲のようだ。


「自然と一緒に居られる関係」

それを体現したように楽しそうにしている。


「子供が生まれて大変だ」なんて言っていたけれど、

電話口からは子供の泣き声と共に奥さんの笑い声、


どうやら通話をスピーカーにしていて、

こちらの会話を聞いているようだ。


大変なことに変わりはないのだろうけれど、

「笑顔の絶えない家庭」

そんな幸せを築いているみたい。


前にも一度書いたかもしれないけれど、

「結婚しない人生より、

結婚してうまくいかなかった人生のほうがマシ」


そう言っていた友人だ。


だから奥さんと会う前から、

相手に関わらず、

知人の紹介があった時点で、

ある程度は気持ちを固めていたみたい。


それが初対面の「直感」を促したのだろうか。

それとも「とりあえず会う」でも、

同じように「直感」していたのか。


もはやそれを知る術はないけれど、

「直感」に至るような行動を続けることは大事なのだろう。


去年の6月に会った女性、


私は「直感」のようなものを感じたのだけれども、

相手はそうではなかったようだ。


「直感」


それは経験を一瞬に凝縮したもの、

経験の足りない私の「直感」は当てにならないのかな。

 

だけれども、

それでも望むならば、

行動し続けるしかないのだ。

 

そしてチャンスがあったならば、

それを引っ掴むくらいの覚悟が必要、

 

もはや出会いが自然と舞い込んでくるような気はしない。

「性欲」と「知的好奇心」について

f:id:tureture30:20200823194846j:image

 

精神分析の大家であるジークムント・フロイトは、

もともと存在した「欲望」を示す言葉「リビドー」と結びつけて、

人間に生じる欲求の起源を片っ端から「性欲」にあると定義した。

 

それがあまりにも行き過ぎたため、

弟子であるカール・グスタフユングは、

「異」を唱えて袂を分かつことになる。

 

賛否はあるのかもしれないけれど、

「種の保存」というもの、


それは言うまでもなく、

生物の持つ「本能」の最たるものだ。


だから脳はその行為に快楽を与えて、

その行為を好むように仕向ける。

種を亡ぼさないためのシステムなのだ。


面白い記事を読んだ。


もしもテクノロジーが発達して人間が無機物化して、

寿命が1000年や10000年になったとして、

当然クローン技術だのは発達しているだろうから、

「種を保存するため」の生殖は必要なくなる。


そうなった場合に残される、

「人間存在の本質」

即ち、本能的なものは何か。

 

記事では「知的好奇心」としていた。


人間は種族としてアーカイブを作っていて、

それを充実させることによって生存競争を勝ち進んできた。

 

情報化社会だ。

今後はさらにその傾向に進むだろう。


そのような主張だ。


「なるほど」と思った。


「生殖」が種の保存の手段、

その最たるものではなくなるのだ。

科学技術の発展がそれを代替する。


既にそういうことが起きている。

むしろ今がまさにその渦中だ。


医療の発達により格段に寿命を延ばし、

積み上げたアーカイブにより、

未曽有のパンデミックと対峙する。


脳内物質やら遺伝子の研究は進み、

寿命を伸ばすために自らの快楽を飼いならし、

生活は何ともアカデミックに様変わりした。


誰もが「健康」という名の宗教に、

意識せずとも入信しているのだ。


「人間の本質」

刃を突きつけるようなテーゼ、


もはや、

生殖は「種の保存」のための行為ではなく、

「快楽」のみが一人歩きした「ゾンビ」か。

 

今でも半ばそういう節がある。

望みさえすれば性風俗や出会い系に繰り出し、

対価を支払い欲望を解消する。

 

さらに手軽にそれを解消するために、

コンテンツはネット上に溢れている。


なぜ「快楽」を伴うのか。

それが「種の保存」に繋がる本能だからだ。

その本能に従って欲求を満たしているだけ、


生物としてのリスクの大きさが異なるから、

男女に違いはあるけれども、

そこに生じる快楽の理由は概ねそういうことだろうか。

 

だけれども、

「種の保存」

目的だけが抜け落ちているのだ。

 

人は「意味」を求める生き物、

 

このような状態が続くと、

行為そのものに疑問を持つようになるんじゃないかな。

 

「若者が恋愛をしなくなる」

「草食男子」

「未経験率の増加」

 

経済的理由がその原因として挙げられるけれど、

本当にそれだけなのだろうか。

 

パーソナリティの肥大化した時代、

人に心を委ねること、

体を委ねることに付き纏うリスク、

それを受け入れ難くなっているんじゃないかな。

 

「理性」が「本能」を凌駕し始めているのだ。

いや「本能」が弱まっているというべきか。


生身の体が触れ合うような欲求の解消方法は、

もしかしたら未来では淘汰されるのかもしれない。


一方で「知的好奇心」


「知らなかったことを知る」

「できなかったことをできるようになる」

「成長」ってやつだ。

 

人は「意味」を求める生き物、

 

先に進んだ気になれる。

人生に「意味」が生まれる。

だから「成長」に喜びが生まれる。

 

その「喜び」の正体が「種の保存」だとすれば、

「成長」により得られる快楽、

 

即ち「知的好奇心」を満たす快楽も、

本能からくるものなのかもしれない。


その出所に考えを巡らせる機会は、

振り返るとあまりなかった。


何とも興味深い。

「人生に意味を求める」

 

それも「種の保存」に繋がる本能なのかな。

 

f:id:tureture30:20200823194751j:image

 

雑多になったので主張をまとめる。

 

【まとめ】

 

*「性欲」は「種の保存」との結びつきが弱まり、

「本能」から淘汰されようとしている。

 

*代わりに「知的好奇心」が「種の保存」との結びつきを強めて、

「本能」として台頭してきている。

 

*人類の「本能」が行き着く先は「知的好奇心」であり、

「性欲」は快楽のみを伴う「ゾンビ」のような存在になる。

 

 

最後にここまで書いて思うのだけれども、

「だからなんだ」

そう言われると何も言えない。


あまり論理的に考えすぎると、

どうにも人生が淡白に思えてくる。


できるだけ「誠実」でありたいなんて思ってさ。


色々とやってはみたけれど、

面白おかしく生きているのが、

一番賢いのかもしれないな。

 

時代から言わせれば、

「性欲」は「ゾンビ」なのかもしれないけれど、

それってなんとも男性的な視点だ。

 

相手との関係が確かなものであれば、

体を重ねることにより、

「求められている」

「受け入れてくれる」

「居場所がある」って、

そんな安心感へと繋がる。

 

裏の感情にしたって、

「支配欲」やら「ステータス」やら「生活補助」

異性を求める理由はいくらでもある。

 

結局はそれらを「性欲」と区別することはできないのだ。

 

ここまでは「安心感」で、

ここからここまでは「支配欲」

はい、あなたは正真正銘の「性欲」ですね。

だなんて、

そんなことはわからない。

 

だから「性欲」が「ゾンビ」だろうが大いに結構、

 

人は「意味」を求める生き物だから、

自分を嫌いにならないために責任は取らないといけないけれど、

あとは好きにすればいいのだ。

 

それが私の結論か。

 

やはり「真理」は人に何かを与えるどころか、

人から何かを奪うばかりなのだ。