「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「色気のある文章」を書きたい

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連休に入り少し精神的に落ち着いたのだろうか。

ふと思い浮かんだ言葉、

 

「文章モテ」とでも言えばいいだろうか。

 

男女問わず人を惹きつけるような文章、

そういうものを書きたいと思う。

 

「色気のある文章」

なにも「官能的な表現を磨く」というのではない。

 

チラリズム

 

はだけた胸元、

透けて見える下着、

スーツの下から隆起する筋肉、

 

普段は隠している、

あるいは隠そうとしている。

 

だけれども見えそうで見えない。

そして時折見えてしまった時の高揚感と背徳感、

 

それが想像力を掻き立てるのだ。

 

それは「異性」に感じるものだけれども、

「文章」もおそらく同じなのだ。

 

私はそこに「色気」があるように思う。

 

だから、

見えそうで見えない。

だけれども見方によっては透けて見える。

 

著者と同じものを共有している者だけが見える。

それならば、なお良い。

見えてしまった時の高揚感を煽る、

そんな極上のスパイスだ。

 

「意図」が見え隠れするような文章、

それが「色気のある文章」なのかな。

 

「書くこと」

 

800日近く毎日更新を続けて、

ストックや没になったもの、

プライベートな日記までつけている。

 

もはや私にとって、

それはライフワークだ。

だからこそ大事にしたいと思う。

その方向付けをしっかりしたものにしたい。

 

私にとっての「書くこと」

 

それは「人生をより濃く生きる」

そのための行為なのだ。

 

だからその行為にどのような色付けをするか。

それで私の人生は大きく変わる気がする。

 

「色気のある文章」を書きたい。

 

それが私の願望ならば、

私は「色気のある人間」

それに憧れているのかな。

 

つい最近、後輩くんに言われた言葉、

 

いくら望んでも相手ができないという私に対して、

「ますをさんは男にモテすぎるからいけないんですよ」って、

そう言われた。

 

あまりその自覚はなかったし、

その言葉の真意はわからなかったけれど、

場を盛り上げるための「道化」になりがちなのかな。

 

低音でゆっくりはっきりと、

「深みのある一言」をぶち込む。

おそらく私は文章ほど言葉の立つ人間ではない。

 

「文章」を磨くとともに、

「言葉」を「文章」に寄せていく。

 

おそらくそれが「理想」への道筋だ。

 

「色気のある文章」を書きたい。

ふと浮かんできたその言葉を大事にしたい。

 

しばらくはその方向で書き続けることにする。

そう思った日曜の朝、

 

「自由」を与えられたうえで支配されたい欲求

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人間だれしも、

そういう欲求を持っているのだろう。


尾崎豊『卒業』

「この支配からの卒業」


とても印象的なフレーズだ。


人は多くの場合、

生まれながらにして「庇護」にある。


その「庇護」を当たり前のように享受して、

「愛という名のおやつ」を与えられて、

与えられることを疑うことなく、

すくすくと育つ。


テレビで聞いたある実験の話、


このような非人道的な実験をすること自体が恐ろしいのだが、

たくさんの孤児に対して、

「栄養は申し分なく与えるけれど一切のコミュニケーションを取らない」

そうするとどうなるのか。


すると2年以内に例外なく死んでしまったらしい。


人は「コミュニケーション」

「自分への興味関心」というべきだろうか。

さらに言えば「愛情」といえるかもしれない。


それ無くして生きてはいけない生き物なのだ。


だけれども、

自我が肥大化して「庇護」の枠に収まらなくなると、

「支配からの卒業」を目指すようになる。

「反抗期」というものがこれにあたるのかもしれない。


そしてまずは一定の「自由」を勝ち取って、

独立を目指す。


致命的に失敗するまでは、

その「自由」をどんどん広げていき、

「手に入れること」で「自分になった気になる」


それが「子供」が「大人」になる。

そういう過程なのだろう。

 

だけれども、

どこかで求めているのだ。

「心の拠り所」となる何かを、


私も散々お世話になっているけれども、

「両親」だったり、

人によっては「社会」や「信仰」

今流行りの「サロン」なんかもある。


いわゆる「メンター」と言うやつだろうか。


人生を進めるにあたっての指針というべきか。

そういうものを求めているのだ。


どんなに「自分」を確立したところで、

人は一定「支配される」ことを望んでいる。

 

それって自然なこと、


それを拒むということは、

ある意味では自意識が壊れてしまっているのだ。


だから「アナキン・スカイウォーカー」は、

ダークサイドに落ちて、

ダース・ベイダー」になってしまった。


一定の「自由」を獲得しながらも、

「支配されることを望む」

そんな自分を肯定してあげること、


それができてしまえば、

誰かに頼ることが苦ではなくなる。


そこから「できない自分」「弱い自分」

それを認めてあげる足掛かりになるんじゃないかな。


「自分であろう」とするあまり、

「自分を見失ってしまう」のだ。


「支配からの卒業」


それを目指す時期は必要かもしれないけれど、

それをできなくても何も問題はない。


「国家」や「社会」はもちろんのこと、

「倫理」や「道徳」なんてものも、

広義での「支配」にあたるかもしれない。


結局、

人は「自由」でありながら、

「支配されること」を望んでいるのだ。


生まれた時から「庇護」を受けていて、

それは死ぬまで変わらない。

 

まともな社会生活を送る限りは、

そこから抜け出すことはできないし、

人もそれを心のどこかで望んでいるのだ。

 

結局、我々の望む「自由」なんて、

自分に都合の良いものでしかない。

 

年を経て「被り物」は変わるけれど、 「おばさん」も「お姉さん」も女は本質的に変わらない

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どこかで目にして印象に残った言葉、

「女の中身は歳をとっても変わらない」


確かに未就学の姪を見ていて感じることがある。

この年でも「女の子」なんだなって、


自分の要求を通すために、

愛想を振りまくのだ。

「自分が可愛い」ということを理解していて、


それは遺伝子に組み込まれた本能なのだろうか。

それとも幼いながらに勝ち得た処世術なのだろうか。


「女」はいつまで経っても「女」


だけれども、

「男」もそれは変わらないのかな。

きっと社会の求める役割が人をそうさせるのだ。


社会の要請に適応するべく、

「男」は「男」を演じるうちに男らしくなり、

「女」もまた然り、

 

そのバランスが崩れた。


私の中で象徴的なのは2014年、

アニメ界ではこぞって「女性だけの世界」が描かれる。


この年は、

ディズニーから『アナと雪の女王

ジブリから『思い出のマーニー』が公開された。


どちらも王道のいわゆる「ボーイミーツガール」ではなく、

ダブルヒロイン」を採用している。


特にディズニーはこれまでとは一線を画す作品を投入した。


ラストで雪の女王「エルサ」を救ったのは、

「王子様」ではなく妹の「アナ」だったのだ。


「世界に男は必要ない」


世界的な2つの配給元がそろいもそろって、

そういう作品を打ち出した。

それがとても印象的だった。


実際に私が見たのは劇場公開よりは少し後になるから、

実感としては翌年辺りだったのかもしれないけれども、

いずれにしても世界は「ジェンダーレス」に進んでいるのだ。


ジェンダーレス」


その考え方が少しは浸透してきたけれど、

そのことで人は「役割」に戸惑うことにならないのかな。

 

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持論は前述のとおり、

「社会要請がジェンダーを形作る」

そこに置こう。


もちろん「マイノリティ」は存在して、

適度な理解と配慮は必要だろう。


だけれどもある程度の「枠組み」

「男」はこうで「女」はこう。


そういう前提に従って社会は回ってきた。

そして多くはそれに従い「自分」を形作ってきた。


今はちょうど過渡期で、

それが混乱しているんじゃないかな。


「男らしさ、女らしさ」


「それを求めない」と喧伝していても、

一方でそれを強く求められている。


だから地盤が固まらず、

男も女もよくわからなくなっている。


婚活をしていると、

多くの女性は結婚後も働きたいという。

そして多くの男もそれを歓迎している。


そうなると「家のこと」はどうするのか、

役割分担に苦慮する。


自由度が上がって、

カスタマイズできるってことはさ。

裏を返せばそれだけコストがかかるってこと、


時間だったり、

精神的なリソースを割くことになるのだ。


「自由」は素晴らしいって風潮だけどさ。

そうとも限らないんじゃないのかな。


社会の一員として、

「居心地の良さ」を求めるのならば、

レールの上を走らないといけないのだ。

 

「ルール」と「自由」
多くの場合でそれはトレードオフ


そのバランスを自ら選ぶ自由、

そういうものは広がったのかもしれないけれど、

何を選ぶのも自己責任なのだ。


だから「男らしさ、女らしさ」

それを強要される中にも「生きやすさ」はあるし、

ジェンダーレス」の中にも「生きづらさ」はある。

 

男も女も、

それぞれが「被り物」をカスタマイズして、

処世術としてそれを使いこなしている。

 

取っ替え引っ替えするものだから、

時には間違えることもあるし、

「被り物」自体が破れて使い物にならなくなることもある。


年を取ったり、立場が変わったり、

そのたびに作り出す「被り物」は洗練されていき、

いかにも立派に見えるようになるけれど、

中身はそんなに変わらないんじゃないのかな。

 

今の「被り物」と50年前の「被り物」

並べて比較すれば違いは一目瞭然だろう。


だけれども、

その「被り物」の中身は変わらないのだ。

「人間の本質」なんてそうは変わらない。


結局、人は愚かで浅はかで自己愛に塗れていて、

それを「理性」で隠そうとしながらも尻尾は隠れていない。


そういう生き物なのだ。


だから「しれっ」とさ。

紳士、淑女でも気取っていればいい。


「おっぱい」のことばかり考えていたってさ。

ボーイズラブ」のことばかり考えていたってさ。


「夜は床間で運動会」

毎晩それに夢中になっていたってさ。


「そんなことには興味のかけらもありませんよ」って顔してさ。

「しれっ」としていればいいのだ。


「人の本質」なんて、

大昔から今に至るまで、

そしてこれから先も大して変わらないのだろう。

 

なんで相手もいないのに結婚したかったり、子供が欲しかったりするのか

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時代は変わったのかもしれないけれど、

まだまだ多くの人は「結婚したい」と思っていて、

結婚したら「子供が欲しい」と思っている。


もちろんご縁だから、

望んでも結婚できなこともあるし、

結ばれても子供ができないこともある。


だけれども、

多くの人がそれを望んでいるって、

冷静に考えるとすごいことだ。


「自分の遺伝子を残したい」ってことは、

「究極の自己肯定」だ。

 

それを望むのは、

単に生物としての本能ってだけなのかな。

それとも社会の慣習に従っているのかな。


多分に漏れず、

私も望んでいる一人だ。


しかし「理由」を聞かれると答えに窮す。


「何で結婚したいの?」

「なんで子供が欲しいの?」


直近の感覚でいえば、

「欠落感を埋めるため」だろうか。

「そういう人生を経験したいから」だろうか。


何とも身勝手に聞こえるな。


相手がいれば「愛情」というものが、

大きく関わってくるのだろう。


「大切に思う人と一緒に生きたいから」

「大切な人との愛の結晶をこの世に残したいから」


先に挙げたものと比べると、

なんともまともに聞こえてくる。


結局は相手がいるから、

こういう欲求が「まともなもの」になるのかな。


もしも人類が「不老不死」になって、

20代の体を維持し続けて、

自らが望むまで命を繋ぐことができるようになったら、

この辺の在り方は大きく変わってくるのかもしれない。


「自分にとっての世界で一番素敵な人」

そんな理想を追い続けることができるのだ。


婚活に疲れ果てているくせに、

こんなことを考えている私はきっと、

ロマンチストなのだろう。


「タイムリミットがあるから踏ん切りがつく」

そういうこともきっとある。


結局人生ってものは、

「バクチ」みたいなものなので、

先に進んでみなければわからないのだ。


それでうまくいかなくても自己責任、

嘆いたところで仕方がない。


時間が限られている。

だからこそ人は美しく輝こうと必死になる。


月並みだけれども、

結局はそういうことなのかな。


人は意味を求める生き物だから、

「人生が先に進まないと気が済まない」


その最もわかりやすいライフイベントが、

「結婚」だったり「出産」なのだ。


もちろんそれが全てではないけれど、

「わかりやすい」がゆえに人気がある。


そう考えると腑に落ちる気がする。


「バクチ」に勝って、

「人生の意味」を手に入れて、

そして最後を迎える。

 

始まりに愛は必要なくて、

一緒に過ごすうちに育まれればそれでいい。

それもまた人生だ。

 

相手がいないのに、

結婚をしたかったり、子供が欲しいと思う。

 

パーソナリティの肥大化した時代だ。

何もおかしなことではない。

 

「自由」はある意味では「不自由」なのだ。

 

全てを自分で決めて、

全てを自分で掴み取らなければならないのだから、


どのようなルートを辿ったとしても、

最後は心から納得するものにしたいものだ。

 

「偏桃体」の暴走

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「偏桃体」


不安や恐怖をつかさどる脳の器官だ。


私はパニック障害を患ったものだから、

おそらくこの辺りに問題があるのだろう。


「無意識」がそうさせるのだろうか。

夜中に目覚めると後頭部がやけにざわつくことがある。


とりあえず起きてトイレに行く。


言いようのない不安に襲われて、

「ごめんなさい。許してください。許してください」ってなる。


何に対して謝っているのかもわからないけれど、

とにかくその時は救われることに必死なのだ。


パニック発作の類だろう。


今年は経験していないけれど、

去年は何度かそういうことがあった。


原因となる出来事があることもあれば、

ないこともある。


翌朝は決まって調子が悪い。


以前は「のび太」のように眠れた私、

何とも不便な体になってしまったものだ。

 

だけれども幸いなことに、

自分の体と対話する機会が増えた。


食べ物や運動に気を使って、

生活をコントロールして、

付き合い方を覚えたのだろう。

社会生活を含めてなんとかやって行けている。


年を取れば自然と、

手放さなければならないものは増える。

私の場合は少し早くそれを経験しているのかな。


もう体は戻らないのかもしれない。

それでも生きていくしかないのだ。


不便な体になってしまったけれど、

色々なものを手放して心は身軽になった。


目に見えないところにまで興味の幅は広がって、

知った気になっていた世界のことを、

もっと知りたいと思えるようになった。


そんなふうに変わったものだから、

ちょっとしたことで心は動くし、

涙もろくなった。


「偏桃体の暴走」


何も悪いことばかりではない。


「前の私」の1年分の感動を、

「今の私」は1ヶ月で感じているのかもしれない。


心を殺したままで生きるよりも、

心と向き合いながら生きる。


辛くて苦しいことばかりだけれども、

そのほうが命を正しく使っているんじゃないかな。


それも少しマンネリ化してきた。

それを喜ぶべきか悲しむべきか。


だから私はライフステージを進めたいのだろう。

そのことで悶々とする日々が続いている。


生活が変わって刺激が増えれば、

また「暴走」するかもしれない。

 

だけれども、

それでも「何も進まないこと」には耐えられないのだ。

 

先に進んだ時の景色を見て、

喜びや悲しみを目一杯楽しんで、

その上で最後の時を迎える。


それが私の「命の使い方」なのかな。

 

「埋める」のか「盛る」のか問題

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「長所を伸ばす」


平らな地面に土を盛っていく。

いわゆる「盛る」という行為、


「短所を克服する」


へこんだ地面を土で埋めて平らにしていく。

いわゆる「埋める」という行為、


「いわゆる」だなんて書いているけれど、

完全に私の思い付きだ。


生きる上での傾向として、

「埋める派」と「盛る派」

そういう派閥に分かれるとしたら、

私は完全に「埋める派」だ。


足りないところに目を向けて、

それを克服するために努力するタイプ、

こと、ここしばらくの「恋愛」に対する姿勢がまさにそうだった。

 

「だった」もはや過去形だけれども、

婚活を始めて、

1年足らずで15人ほどの恋人候補と会い続けたけれど、

心惹かれる人はただ一人、

その一人ともうまくいかなかった。


私は平坦を好んで、

埋めた地面にシートでも敷いて、

そこに寝そべり空を眺めるのが好きなのだろうか。


取り立てた長所があることに目を向けて、

それを自尊心の拠り所にするよりも、

「穴」があることが許せないのだ。

だから「穴」を埋めようと躍起になるのだろう。


従来の日本型社会はそういう人間を求めていた。


「卒なくこなせる人」

公務員のジョブローテーションなんか象徴的だ。


歯車として権力の意に沿う形で成果を上げる人、

それが社会人としてのステータスだったのだ。


だけれども、

これからの時代は「尖った人間」

「盛る派」の人たちが活躍する時代なのだろう。


「趣味がお金になる時代」

確かホリエモンさんがよく言っている。


SNSの発達により、

人は容易く情報にアクセスできる。

情報のもとに人が集まるのだ。


情報を発信することで、

広告収入を得るようなエコシステム、

そういうものを獲得した人がもてはやされる時代、


情報や知名度がお金に変わる。


それがある種の「ドリーム」となって、

オンライン上にはライターやパフォーマーが溢れかえっている。


「お金の稼ぎ方」が変わってきているのかな。

そして「お金の使い方」も変わってきているのだろう。


サブスクリプションとして、

決まったお金をサービスに払い続ける。


このビジネスモデルは、

サービスを垂れ流すだけで利用者が増えるほどに利益が上がる、

そんな「金の成る木」だ。


「Office365」に代表されるように、

多くの従来からあるソフトウェアも追従している。


賢い経営者は、

利益を利用者に還元して、

さらにサービスを向上させる。


口コミで評判を呼び、

さらに利用者が増えて利益が上がる。

よくできたエコシステムだ。


「富は利権あるところに集約する」


「政治」も「投資」もそう。、

世の中の仕組みはそうできているのだ。

 

いつだって「ルールを作る側」が得をする。

そういう社会構造はいつまで経っても変わらない。

 

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何を書きたかったのかわからなくなってきたな。

話を戻そう。


私は「埋める派」で、

「短所の克服」に喜びを感じるタイプなのだけれども、

それをシフトチェンジしていかないといけないのかな。


短所はバッサリと切り捨てる。

その象徴が「恋愛」だ。


これだけやって結果が出ないのだから、

どう考えても向いていないのだ。


そこに「幸せ」を見出すよりも、

もっと別のところに人生の価値を見出せばいい。


どこか拭えない「欠落感」はあるのだろうけれど、

それも含めて私なのだ。


それを受け入れる努力、

そういうものが必要なのかな。


周りの「幸せ」を見るたびに、

どんどん卑屈になっていく。

それは「空いた穴」にばかり目を向けているからだ。


「空いた穴」を埋めるにも材料が必要、

そしてその材料は有限なのだ。


時には限りがある。

「埋める」か「盛る」か。


0と100にする必要はないけれど、

そのバランスを考え直さないといけないのかな。


「できないことをできるように努力する」


それは素晴らしいことだと思うけれど、

何も「短所の克服」だけが人生ではない。


「埋められないまま残っている」


落っこちないようにバリケードでも張っておけば、

人生にはそんな「穴」があってもいいのだ。

 

そういう方向に、

考え方を改めないと、

いつまで経っても無い物ねだりなのだ。

 

もう十分に苦しんだ。

これ以上の苦しみは必要ないんじゃないかな。

 

【2020プロ野球】スワローズが弱すぎる

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スワローズが弱すぎる。

もはや閉口するほどだ。


7月までは上位争いをしていたはずなのに、

8月からは大失速、

 

引き分けを挟んでの5連敗、

8カード連続の負け越し、

連敗を止めてきたエース小川泰弘でも止まらず、

順調に借金を積み重ねている。


一時は首位にまで立ったのだから、

「力がない」わけではないのだ。


「選手層の薄さ」

それが最大の弱点だろう。

 

特に今年のような過密日程では、

選手を休ませながら戦う。

代わりの選手がどれだけやれるかが大事なのだ。


スワローズには、

謎の「70人ルール」なるものが存在する。


70人は日本プロ野球チームにおける、

支配下登録枠の上限だ。

1軍の試合に出られる選手はこの70人でやりくりしなければならない。


これは全12球団共通のルールだが、

最近は多くのチームがドラフト育成指名で選手を獲得したり、

独自の海外ルートで若い選手を獲得したりと、

この70人を超えて選手を囲い込んでいる。


ソフトバンクと巨人はその成功例の筆頭だ。


今年のセ・リーグで巨人が頭2つも3つも抜けているのは、

育成に力を入れてきた功績が大きいだろう。


ところがスワローズの「70人ルール」

育成枠を含めて「70人」しか選手を取らないのだ。


前述のソフトバンクと巨人は、

支配下登録枠70人に加えて、

育成選手を20人以上抱えている。


育成選手とはいえ有望選手だ。

その分チーム内の競争は激化する。

それがチームにもたらす効果は大きいだろう。

そこから成り上がる選手も少なく無い。


ところがスワローズにはそれがない。

競合と比べると、

単純に20人ほど少ない状態でチームを運営しているのだ。


ケガが重なると、

2軍の試合で捕手が内野を守ったり、

投手が外野を守ったりもする。


極めつけは人数が足りずに試合を回せないものだから、

一度引退したバッティングピッチャーと再契約したこともあった。


これではチームが強くなるどころか、

対戦相手に対して失礼だ。

プロ野球チームとして恥ずべきである。


なぜこれほど「70人ルール」にこだわるのか。


理由は明かされていないが、

いつかのインタビューで当時2軍監督だった高津監督、

確か「大人の事情」だと話していた。


想像するに球団の方針か設備の問題なのだろう。

いずれにしても現場レベルではどうしようもないことのようだ。


先行するチームからは少なくとも5年は遅れている。

このまま何も手を打たなければ差は広がる一方だろう。


今年FA権を獲得した2人の選手、

山田哲人」と「小川泰弘」

スワローズの投打の要だ。


二人とも他球団に流出濃厚との報道も出ている。


「仕方ない」とは決して思わないけれど、

弱いままでも球団の姿勢が変わらないようならば、

残念ながら「出ていきたい」というのも理解できてしまう。

 

今年は途中まで期待が大きかっただけに、

本当に面白くない。

 

隔年でそこそこ結果を出す。

監督が変わった年は結果を出す。

そんなジンクスも立ち消えだ。

 

このまま何もしなければ、

暗黒時代に突入する。

 

ファンのほとんどはそう思っている。

フロントはそれだけの危機感を持って欲しい。

そう切に願う。