ますをです。
「週刊中年ジャンプ」
…書いてみただけとです。
ますをです。ますをです。ますをです。
ある会社説明会で女子学生からの質問、
「女性でも少年ジャンプの編集者になれますか?」
それに対して集英社の担当者、
「少年の心が分かる人じゃないと…」
どうやらこれが問題になっているらしい。
最近、性差を巡る議論が活発になっているが、
そもそも過剰に反応し過ぎではないだろうか。
このケースは別だが、
多くは当事者が声を挙げているわけではなく、
その取り巻きによるもの、
「性」を取り扱うと情報に価値が生まれる。
だから敢えて拡散される。
おそらくそういう構図、
「男チーム」「女チーム」
そうやって多くの人を二分するから、
関心が生まれる。
あるプレゼンのスペシャリストが言っていたけれど、
聴衆の関心を引きたければ「自分ごと」にさせること、
それに当てはまるのだろう。
数字が取れる。
だから話題になる。
だから広がる。
だけれども今回の件は、
ジェンダーの視点から見てもなんてことはない。
「女性では編集者になれない」
そう言ったわけではない。
「少年の心がわかる人」
そこに性差はない。
例えば育児に励む母親は、
息子と一緒になって心からはしゃいでいれば、
「少年の心」がわかることになる。
弟と仲の良い姉や、
兄と仲の良い妹だってそうかもしれない。
男の子に混じって遊んできた女の子、
単純に「少年ジャンプが好きで好きで仕方がない」女の子、
それだって「少年の心がわかる人」に当たるだろう。
どこに問題があるのだろうか。
そもそもジャンプの読者層なんて、
もはや中年が多いでしょ。
「少年の心」を持った(求めた)おっさんばかりなのだ。
越えられない壁はあるかもしれない。
「中年童貞の私でもananの編集部に入れますか?」
なんて質問したら「ちょっと…」ってなるのは間違いない。
私には女性の気持ち、
ましてや性の趣向なんて全くわからない。
ananなんて表紙しか読んだことはないし、
興味はあっても手に取るだけで社会的に抹殺されかねない。
(少なくとも周りはそう評価するだろう)
それぞれターゲットとなる層があって、
それに(社会的に)適材と思われる人が配属される。
そこには「性」による向き不向きはある。
それは当たり前のこと、
だけれども、
熱意ってものは伝わるもので、
「女性だから」と諦めるのか、
「女性でも」と奮起するのか、
そこが大事なんじゃないかな。
「女性だから」
それで諦めてしまうならば、
そこまでジャンプの編集部に入りたくなかったってこと、
「女性でも」って、
ドラマ『同期のサクラ』みたいに、
歯を食いしばってやるべきことに奔走する。
そういうのが将来につながる。
そもそも社会なんてのは、
理不尽の塊なんだから、
いくら望んでも叶わない夢だってある。
だけれども、そうだとしても、
真剣に「社会」ってやつと向き合ううちに、
本当に目指していたことが見つかるんじゃないかな。
人の脳は嫌でも努力に意味を見出す、
便利でいて不便なもの、
「置かれた場所で咲きなさい」
そんな本があるけれども、
その通りだと思う。
ただの数字を稼ぐためのネタならば別にいいけれど、
「本気で編集者になりたいのに水を刺された」
そう思っているならば、
そんな些末なことに囚われていないで、
その時に目指しているものに全力で突き進めばいい。
それでダメでも、
その経験は無駄にはならない。
望むような立場を手に入れたところで、
そういう地道な苦労のできない人は、
結局不満に押しつぶされてしまう。
「夢」は大事、
だけれども、
「夢」よりも大事なことってあるんじゃないかな。
やるべきことをやり続けているからこそ、
人は時々「夢」を見たくなる。
サブカルって、
そういう欲求を満たすためにある。
そして時に「夢」は、
手の届く現実になる。
中年になると、
今を生きるのに精一杯、
将来の不安にばかり目が向くようになる。
だけれども、
中年だって、
女性だって、
大事に大事に「少年の心」を抱えていて、
それに支えられて生きているのかもしれない。