このブログを始めた頃は、
心はどん底にありながらも、
どこかで希望のようなものがあった。
まだ行動の余地があったから、
「コントロールできる」
無意識にそういう思いがあったのだろう。
だけれども一通り動いてみて、
なんだか「諦観」とでも言うのだろうか。
一人を受け入れようとしている自分がいる。
それって成長なのかな。
よくわからない。
動いても動かなくても、
時は等しく過ぎていく。
できることは一通りした。
その結果、選択した先が今、
そう考えると自分の現状を受け入れられるのかな。
私は誰で、
何を目指していて、
どうなりたいのか。
私の幸福ってなんなの?
「好き」ってなんなの?
結婚は幸せの道標なの?
わかりやすくするために、
幸せの種類をラベリングして、
まっとうに生きてきたならばきっと、
あまり考えることもなく「結婚」=「幸せ」って、
そう思えるのかもしれない。
散々こじらせてしまったから、
ゼロからラベリングしないといけないのかな。
もはや「幸せになりたい」よりも「救われたい」
欠落感が大きいのだ。
人と比べて足りないことが重くのしかかる。
「別に気にしなければいいのにね」
そうやって笑い飛ばせるほど強くはない。
人生に何かが足りない。
でもそれって結婚で補えるのかわからない。
もしかしたらそこではないのかもしれない。
結局は進んでみないとわからない。
待っていても誰も来ない。
だからまた相手探しを始めないといけないのかな。
枯れた心に水を注いでくれる。
そういう相手と一緒になることができれば、
この欠落感は埋まるのかな。
「吾輩は猫である。名前はまだない」
幸せには安易に名前なんてつけられない。
ただ満たされた心がある。
それが幸せってことなのかな。
満たされたい。
心から満たされたい。
周りの幸せなんか、
気にならなくなるくらいに、