人の心というものは事々刻々と参加しているのだ。
何か一つのことに囚われて自らを不幸だと思い込むこともあれば、単純なことによって有頂天になることもある。
幸せを感じる瞬間、満たされない時間、
それを交互に繰り返して織りなすものが人生なのだ。
誰かと比べてばかりで、「満たされなさ」を自ら演出してそこを居場所にしようとする。
「満たされない自分」
それは「何もない自分」よりもいくらかマシなものだから、簡単に手に入る立場として利用する。
「満たされない。満たされない」
そう主張していれば、いくらか居場所を得られたような気になれる。
その繰り返しに身を委ねる中で、時は無常に過ぎていく。
「満たされなさ」を利用しているうちに、気がつけば満たされない人生を受け入れるようになる。
そうやって人生の外側に自らの手で「枠」を作り出し、その枠の中だけで生きるようになる。
さて、本題に入ろう。
「結婚」というものはある種のステータス、
それを手に入れることによって社会的な立場を手に入れることになる。
美人な妻、稼ぎの良い夫、
それぞれが自らを着飾る装飾品にもなるのだ。
もちろん社会的なものだけではなく、種としての優位性を証明するものにもなる。
異性と関係を築き上げて、異性から受け入れられるだけの価値がある証明、
それも結婚によりもたらされるものだ。
だから妙齢になると、男女ともに妥協をしていき、ある意味では「結婚すること」が目的になる。
お隣、韓国の首都ソウルでは、出生率が0.64と危機的な状況らしい。
これもまたどこを切り取るかで変わる数値なので信憑性は不確かだけれども、東京の1.13と比べて半分近い数値となる。
一人のパートナーと結婚をして子供を育てる一夫一妻制が主流の社会、
長い目で見て、一人の女性が生涯に生む子供の数の平均値が2を割れば人口減に転じることになる。
単純計算だけれども、複数の子供を産む女性を考慮すると、ソウル市内に住む女性の半数は子供を産まない人生を歩むということ、
この数字がそのまま「未婚率」に結びつくとは限らないけれど、もはや「結婚して子供を育てる」という人生のモデルケースは崩壊しつつあるのかもしれない。
それでも日本人未婚者は「婚活」というものに勤しんでいる。
かく言う私も2年ほど夢中になり、毎週のように別の女性との出会いを重ねていた時期があった。
その結果として得られたものは「経験」だけ、
成果に結びつくことはなかった。
そこに卑屈になり、女性からのアプローチのようなものに対しても猜疑心を感じるほどに、男としての自分の価値を信じられなくなって今に至る。
私は「結婚」というものにこだわりすぎていたのだろう。
何か「満たされない理由」を全て異性関係のせいにして、「満たされている部分」に目を向けようとしなかった。
ここまできたら、意思の問題ではないのかもしれない。
そう思えるくらいには行動してきたし、奇跡的にチャンスを逃しすぎたのだ。
「なるようになる」
それでもその先の人生に責任を持つこと、
それだけはやり続けなければならない。
このまま40過ぎて、50になって、
それでも一人のままだとしても、
私は私の人生に責任を持ち続けなければならないのだ。
例えそうなったとしても、
幸せな瞬間はあるし、不幸な瞬間もある。
それを受け止めながら、まだまだ長いこと生きていくことになるのだろう。