「親切さと心は別のもの」
「親切はただの習慣だから心とは違う。
心はもっと深く、もっと強く、もっと矛盾したもの」
自分の可能性の限界、
システムの中で生きること、
閉ざされた世界、
壁の中には「親切」はあるけれども、
「心」はない。
心は不安定で不可解な行動を起こす。
合理的に染まらない。
壁(システム)の中では邪魔なものだから、
心って一体どこにあるのだろう。
「怒り」だったり「悲しみ」
そういう負の感情に隠されているのかな。
だけれども常に不機嫌(に見える)人っているからな。
自意識に支配されていると意味もなくそうなる。
彼ら、彼女らにとってはそれが習慣なのだ。
10個年下の女性と結婚の決まった友人、
会うたびに隠し切れないほどの幸せが溢れている。
心ってそういう雰囲気だったり、
行動ではない何気ない姿に現れるものなのかな。
「優しさ」だとか、「親切」だとか、
そういうものって、
善く(というよりも人間らしく)生きていれば、
自然と備わる習慣のようなもの、
だからいくらそれを表に出したところで、
気持ちがあるとは限らない。
私の「優しさ」だって、
多くはそういう性質のもの、
ある意味では処世術なのだ。
そういう自覚はある。
そうやって生きているから、
上辺ばかりの女性とばかり縁があるのかな。
私はおそらく、
「結婚相手としてちょうどいい」のだろう。
だから周りにいる女性たちは、
妙齢になるとちょっとばかりアプローチをしてみる。
だけれどもそれで靡かないものだから、
他の男に切り替える。
私は気持ちを温めて、
固まるまでに時間がかかってしまうから、
「好き」なわけではない。
「ちょうどいい」のだ。
そこには心などない。
あくまでも可能性の一つ、
それくらいのもの、
私の「優しさ」と同じ、
ある意味では処世術だ。
それを私は「好意」と勘違いする。
「Like」ではなく、
「Love」の方なんじゃないかって、
そうやって勘違いする。
女性は現実的な生き物、
それに容姿が良くて、
好意を匂わせるくらいの行動力があれば、
普通の男は放って置かないから、
一通りの恋は経験してきているのだ。
だからもういい年して、
男女関係に甘酸っぱさなど求めていない。
私とは違って、
そもそもスタートラインが違う。
だからうまくいかない。
そういうことなのかな。
「心のありか」
それは誰にもわからない。
本人でさえも怪しい。
心はなかなか表には出てきてくれないのだ。
みんなその中でも、
誰かと関係を深めて、
過ごした時間を気持ちに還元して、
一緒になっていくのだ。
壁の中で、
心をどこかに置き去りにして、
生きるために生きるのだ。
少しばかりの幸せを糧にして、
生きるために生きるのだ。
人生ってそういうものなのかな。
恋愛って、結婚ってそういうものなのかな。
身を焦がすほどの気持ち、
それで痛い目を見ると心は動かなくなる。
自己防衛機能が働くのだ。
それを繰り返して、
人は大人になっていく。
「諦め」という名のおやつをお腹に溜め込んで、
なかなかそれを消化することはできない。
手足を動かすことをやめてしまうから、
体はどんどん重くなってしまうのだ。
それでも手足を動かすことをやめないで、
最後まで大人になる事ができないと、
尾崎豊さんのような人生を送るのかな。
人って、
心に蓋をして、
壁の中で、
生きていくしかないのかな。
心って、
脳が作り出した幻影に過ぎないのかな。
生きるのに不要なものなのかな。
心って、
なんだろう。
生きれば生きるほどわからなくなる。