「自分と周りとの距離感がわからない」
あるいは「自分の周りに大きな壁を作り上げて外界との交流を手段する」
そんな主人公から見た世界、
いわゆる「世界の外側からの目」というもの、
昨今の「純文学」と呼ばれるものには、
そういうものが多い。
「発達障害」という言葉が市民権を得たから、
そういう主人公の特性に対しても一定の理解は進んでいる。
だけれどもその目から見た世界のおぞましさや残酷さ、
そこに醸し出される「おかしみ」
それが読者にカタルシスを与えてくれる。
みんな「世界」のことを疑っているのだけれども、
何をどう疑っているのかがわからないのだ。
それを「共感を生む形」で描いたもの、
近年の芥川賞作はそういうものばかりだ。
この「世界」ってものはさ。
「人間」が作り出したものなんだよ。
いや、それだと語弊がある。
少なくともこの「社会」ってものは「人間」が作り出したもの、
だから「人間」に都合よく作られているんだよ。
その「人間」の枠に収まっているうちはいい。
だけれども「人間」でいるためにも努力は必要なのだ。
みんな自分の「おかしい部分」を取り繕ってさ。
「着ぐるみ」着ながら何食わぬ顔で生きている。
「社会」で生きるためにさ。
「人間」であるためにさ。
「着ぐるみ」に装飾品なんかを付けたりして、
「着ぐるみ」の上に化粧をしたり香水振りかけたりなんかして、
そうやって生きているんだよ。
だけれどもそれができない人たちがいる。
今村夏子さんの『こちらあみ子』
主人公の少女「あみ子」は全く空気が読めない。
思ったことは全て口にしてしまい、好きな人には「好き」と言う。
テスト中に歌いだしたり、何日も風呂に入らなかったり、
やがて「あみ子」が原因で家庭崩壊に陥るが、
「あみ子」はそのことに気が付いてもいない。
最後は一家離散となり「あみ子」は「社会」と縁のない世界で生きることになる。
忖度をする意味が分からない。
心の赴くままに悠々と「社会」を進んでいく。
誰かとぶつかったことにすら気が付かない。
やがて周りを「不穏な空気」が取り囲むようになり、
そして「社会」から弾きだされていく。
「あみ子」の目を通して浮き彫りにする「社会の歪さ」
芦田愛菜さん主演で映画化された同著者の『星の子』を読んでも感じたけれど、
「普通」って何なんだろうね?
「着ぐるみ」を着て生きるのと、
「着ぐるみ」を着ないで生きるのと、
どっちが正しいんだろうね?
「着ぐるみ」を着ないで裸のまま歩く主人公、
我々はそこに対する「憧れ」をもって生きているんじゃないかな。
だから「純文学」に惹かれるのだ。
前に記事にした「無垢への憧れ」
ここにつながるのかな。
一度「大人」になってしまったら、
もう「無垢」には戻れないのだ。
取り繕うことはできても、
自分は自分の「醜さ」に気がついている。