少なくともDVD化されたジブリ作品はすべて見ている。
そして私の理想の女性像は「風の谷のあの人」だ。
そう伝えると、
「私の理想の男性像はパズーなの」って、
そう返してくれた女性がいたな。
とても素敵な返しだった。
自然と連絡は途切れてしまったけれど、
宮崎駿監督には怒られるだろうけど、
毎日のように変わる変わる何かしらを見ていた時期もある。
思春期を少し過ぎたあたりだろうか。
『耳をすませば』の人を好きになるまっすぐさ、
そういうものに憧れた。
ちょうど主人公と同じ20代の後半には、
「居場所」って自分で見つけるものだって、
自分で切り開かないと手に入らないって、
そういうことを切なく実感した。
そして昔から今も変わらずに、
見るたびにときめくのは『魔女の宅急便』だ。
13歳の若さで黒猫のジジとともに、
知らない町で1年間生活をする、
魔女になるためにそんな修行に挑む少女キキ、
実はそれってとんでもなくすごいこと、
周りの人たちの温かさに包まれて、
拠り所にしていた魔法を奪われても、
その挫折に立ち向かう。
そして最後は見事にそれを乗り越える。
たしか鈴木敏夫さんの『ジブリの哲学』に書いてあったと思うけれど、
この作品は「渡る世間に鬼はいない」ってテーマを持っているらしい。
なんだか「性善説」を肯定してくれるような救いがある。
そう。
ジブリ作品には「救い」があるのだ。
宮崎駿監督と養老孟子さんとの対談集『虫眼とアニ眼』にあったけれど、
人はいつまでも「無垢に対するあこがれ」を持って生きている。
もう取り戻すことはできないのかもしれないけれど、
「これ以上は汚くなりたくない」
「純粋でありたい」ってどこかでそう願って生きているのだ。
だから奥底に沈んでしまった「純粋さ」
それを呼び覚ましてくれるジブリ作品に惹かれるのだろう。
私は「誠実」という看板を掲げて生きている。
いつ何がきっかけだったかはわからないけれど、
それを掲げるにあたってジブリ作品が影響していたのかもしれない。
「無垢に対する憧れ」
そういうものが強いのだろう。
なんだかそんな気がする。
誰だって汚れたくない。
だけれども汚れないと生きていけない。
だから作品にカタルシスを求めている。
少なくとも私はそう。
忘れていたけれど、
忘れたくない何か。
その正体は「無垢」なのかな。
それってきっと、
死ぬまで求め続けるのだ。
「あざとさ」や「狡猾さ」
人はそういうものに染まっていく。
そしてそれを自覚している。
だけれども、
「漂白」するわけにはいかない。
生きていくために必要なことだから、
だからその時だけは、
作品に触れている時だけは、
「シュッシュ」とスプレーでも吹きかけて、
心を白くコーティングしてあげるのだ。
白く染まることはないけれども、
白く染まった気にはなれる。
だから私はジブリ作品が好きだ。
そしてこんなにも世間に求められているのだろう。
誰もが「無垢」でありたいのだ。