作品を生み出すたびに毒気が抜かれてしまうのか。
はたまた「財」や「名声」がそうさせるのか。
はじめは社会に対する強烈な風刺を売りにしていても、
最後はみんな「人間賛歌」にたどり着く。
何十年もずっとイキっている。
そんなアーティストなんているのだろうか。
いたとしても、
ものすごく消耗する反面でリターンは期待できない。
あまり社会からは求められないのだ。
それを続けるためには狂気じみた信念が必要なのだろう。
私はブログを毎日更新し続けて、
気が付くと900日間近というところまで来た。
それだけ続けていると、
そんなに大したものではないけれど、
「型」ができてくる。
ある意味では、
徐々に「スポイル」されていくのだ。
私はこの場を通して、
自分の「毒」を抜いているのかな。
「創造的人生の限界は10年」
「限界」でも10年、
多くの人はもっと短いだろう。
10年も何かをアウトプットし続けてきたら、
おそらく生きているうちに触れる世界、
それを映すための心、
その「核」となるものは、
凝り固まってしまうのだ。
「自分になる」
もしかしたら、
それがそういうことのなのかもしれない。
「自分になる」と、
その後は何をインプットしても、
大差のない感情しか生まれてこない。
私もブログを書いていて感じるけれど、
手を変え品を変え表現の仕方は違ったとしても、
既にほとんど同じ主張の繰り返しなのだ。
「常にアップデートし続ける」
そういう意識で生きてはいるつもりだけれど、
アップデートの速度はそこまで早くはない。
たまにある「気づき」
それをかき集めて、
ようやく1センチというところか。
100メートルくらいの道のりを1センチ、
それくらい前進できればいいほうだ。
先日記事にしたけれど、
人は「経験を信仰する生き物」
これまで生きてきた自分、
これまで続けてきた「人間という仕事」の成果、
最後はそれを肯定せざるを得ないのかな。
だから「死」の足音を感じるにつれて、
思考は「人間賛歌」に向かっていく。
紆余曲折あったとしても、
芸術の終着点は「人間賛歌」なのかもしれない。
そしておそらくそれは、
人生の終着点とも一致する。
志半ばに亡くなることはあるだろう。
「終わり」を受け入れられずに、
もがきながら逝く人もいるだろう。
「心の求めるもの」と「進まざるを得ない道」
尾崎豊さんはそのギャップを埋めることができなかったのかもしれない。
私のブログ、
どこかでスイッチが切り変わるのだろうか。
「怒り」「哀しみ」「憤り」
「妬み」「嫉み」「憎しみ」
「負」の感情の持つエネルギーは膨大だから、
多くの場合、それらから芸術は生まれる。
徐々に毒を排出していき、
エネルギーは失われていく。
そして最後に至る歓喜、
生み出される「人間賛歌」
作品がそこまで到達したら、
きっと芸術家としての使命はそこで終わるのだろう。
あとはおまけのようなもの、
過去を懐かしんだセルフオマージュや、
「新境地」という名の道楽、
他のアーティストとセッションしてみたり、
誰かをプロデュースしてみたり、
面白おかしく生きればいい。
「創造的人生」は限界を迎えるのだ。
そして「創造的人生」から解放されるのだ。
いつまでもそれにしがみついていたら、
そこから先の未来を生きることはできない。
一度「人間賛歌」を生み出してしまったら、
もう元には戻れないのだ。