私はだいぶ堅実な生活をしている。
少なくとも経済的には、
先のことばかり考えているのかな。
いつまで生きているのかもわからないのにね。
アプリで家計簿をつけながら、
クレジットの明細なんかとにらめっこして、
普段はあまりお金のかからない生活をして、
平均を大きく超えるような額を積み立てて、
そんなことばかりしている気がする。
便利な世の中だ。
スマホ一つで収支は一目瞭然になる。
羽目を外すことは少ないけれど、
人付き合いにお金は惜しまない。
物欲はあまりないけれど、
「愛」や「ぬくもり」や「つながり」は欲しいのだ。
そういうものも今は自粛しているものだから、
支出は目に見えて減っている。
加えて将来の予定は全くない。
お金で色欲を満たすような勇気は持ち合わせていない。
だから今は特に「老後のため」にしかお金を使っていないのだ。
「人としての責任」
生命保険の営業さんは、
よくそういう言葉を使うけれど、
お金を残すことが「人としての責任」なのかな。
老後のためのお金は、
仮に私が早くこの世からいなくなっても、
私に責任のある人のもとに向かうのだろう。
それならば私はきっと、
「人としての責任」を十分に果たしていることになる。
いい年して未婚で子供もいないけれど、
先のことにばかり目を向けて、
備えて、備えて、
お金のことについてはそうやって生きているな。
「何のために生きているのだろう」
満たされない期間が続くと、
なんだかそういうことを考えてしまう。
結婚して子供を育ててって、
とても大変だしリスクの大きいことなんだろうけれど、
直近で未来につながる明確な支出の宛があるって、
幸せなことなのかもしれない。
結局、人はいつまで経っても、
ないものねだりなのかな。
少なくともこのまま将来への状況が変わらなければ、
老後にお金に困ることはなさそうだ。
健康に働き続けられればということだけれども、
そんな儚い安心と引き換えに、
どこか欠落感を抱えながら生きる。
それもまた人生、
どのような状況になっても、
その形にすっぽりとハマって、
喜びを見いだせることができたならば、
きっとこの世界は輝いて見えるのだろう。
全ては心一つ、
私の心がどちらの方向を向いているのか。
希望に胸を踊らせながら生きたい。
悲哀や感傷なんて、
主食ではなくスパイスなのだ。
人はスパイスだけを食べて生きていくことはできないのだから、