人は「居場所」がないと生きてはいけない。
だけれども、
それに加えて死んだ後にまで「居場所」を求める。
自分の肉体は消失して、
物理的に存在しなくなり、
自分は跡形もなくいなくなった世界、
そこにまで、
人は「居場所」を求めるのだ。
死後の残留思念だか、
そんな霊的なものを論じるつもりはない。
生前の話だ。
「この世界に生きた証」が欲しいのだろう。
「私を忘れないで」
「あとはよろしく頼む」
そうやって、
できるだけ長く誰かの心にいることで、
死を目の前にしても、
なお世界との繋がりを望むのだ。
人は「意味」を求める生き物、
人との関わりなしで生きてはいけない。
そればかりではない。
安心して死ぬこともできないのだ。
完全に自己満足の世界だけで生きて、
自己満足のままに死んでいく。
そういう人生のエンディングに生まれる感情、
それはどういうものなのだろう。
「虚しさ」
想像しかできないけれども、
それに近いものなんじゃないかな。
「満たされない」
いくら一人の方が気楽だなんて強がっても、
「強がる相手」すらいなければ、
それは「強がり」にもならない。
その裏に隠れている欲求、
その正体に薄々気が付いているのだ。
「誰かの役に立つこと」
「誰かの幸せに寄与すること」
「未来に繋がる何かを残すこと」
そういう実感が必要なのだ。
自分だけが満たされる。
自分のからに閉じこもったり、
誰かを踏み台にしたりして、
一時的には満たされたとしたって、
そんな「優越感」は長続きなどしない。
だから、
強がってばかりいないでさ。
人の中に飛び込んでいけばいい。
その中に一人くらいはさ。
気の合う人がいるかもしれない。
そしてその一人さえいれば、
それがきっとあなたの「居場所」になる。
「最後は一人で死んでいく」
よくそう言われるけれども、
「死に様」に人生が現れるのだとするならば、
最後の瞬間は人に囲まれていたいな。
なんだかそう思う。
それは私が「寂しがりや」だからなのか。
それとも「人としての本能」なのか。
それはわからない。
自分の子供や孫に囲まれて、
最後を迎えることができたならば、
きっとこれまでの人生に、
「確かな足跡」を実感できるのだろう。
そういうのっていいな。
だから人は子孫を繋ぐのかな。
この世界に、
「生きた証」を残すために、