昨日は女性の好きな「優しい人」について書いた。
今回は逆の視点で考察してみる。
男性が「好きな女性のタイプ」を聞かれたときに、
「容姿」に言及することは多い。
女性にも全くないわけではないのだろうけれど、
比べるとそれは顕著だろう。
マッチングアプリをしていると良くわかる。
「いいね」の数が全然違う。
写真を載せていなくても20代ならば、
それだけでたくさんの「いいね」が付くし、
アラフォーだとしても容姿がきれいならば、
同じくたくさんの「いいね」が付く。
「若くてきれい」
どちらも兼ね備えていようものならば、
「いいね」の数はカウントストップだ。
現実問題、
プロフィールの中身なんておまけなのだ。
少なくともコミュニケーションをとる前の段階で、
男性が結婚相手として女性を選ぶ基準、
「容姿」と「年齢」がその多くを占める。
だから「若くてきれいな人」
それが男性の好きなタイプだということ、
そのことに疑いの余地はない。
もちろん「必須」というわけではない。
あくまで「理想」というものだ。
それは男女ともに同じだろう。
「理想」と「現実」に折り合いつけて、
互いが一致したところでペアになるのだ。
思い描く「理想」のパートナーと結ばれることは、
稀と言わざるを得ない。
それでも男女ともに「理想」があって、
私のようにこじらせている輩もいる。
同じ時を重ねる中で、
居心地が良かったり、
きっかけがあったりして、
「この人かもしれない」って、
一緒になっていくものなのだろう。
なぜ男が「若くてきれいな女性」を求めるのか。
理由は明白だ。
「種の保存」みたいな本能的なことを語りだすと、
それだけで終わってしまうので省く。
「性欲」「支配欲」
「欲望を満たすため」だ。
「英雄色を好む」というけれど、
『論語と算盤』で有名な人格者、
日本経済の父と呼ばれる渋沢栄一氏でさえ、
たくさんの愛人がいたのだ。
わかりやすく言えば、
「若くてきれいな女性」は、
男としてのステータスの象徴だった。
今の感覚だと違和感があるけれども、
歴史を紐解くと「男女の関係」って、
そういうものだったんじゃないのかな。
今はそのパワーバランスが崩れているのに、
名残として「若くてきれいな女性」
それがステータスのように残り続けている。
「男尊女卑依存症」
そう呼ばれるものの正体だろう。
女性のほうだって自覚はある。
「若くてきれい」
それを武器にしてうまいこと生きていく。
いくら否定したところで、
自覚がなくても自然とそうなる。
もちろんそれによる「生きづらさ」もあるのだろうけれど、
「女性の男性化」
社会進出に伴いそれが進んでいる。
逆も言えるかもしれない。
「男性の女性化」
働いて稼ぐだけでは不十分になっている。
もはや「ジェンダーレス」が世界的なトレンドだ。
不自然な形で過去の遺物はちゃっかりと残してさ。
男女共に都合よくそれを振りかざして、
世界はどんどんそちらに進むのだろう。
だから、これから先の未来はさ。
多くの男性が女性に「経済力」を求めるし、
多くの女性が男性に「若さ」や「容姿」を求める。
それが当たり前になるのかもしれないな。
人間は「本能」を飼いならしてここまで来たのだ。
もはや何が起きても不思議ではない。
村田紗耶香さんの『消滅世界』だったか。
他にも誰か書いていたな。
小説の設定で見かけるようになったけれど、
男性が子供を生む世界、
もしかしたらそんなこともあるのかもしれない。
「男らしさ」だとか、
「女らしさ」
それよりも「自分らしさ」
「それが大事なんじゃないかな」って、
このタイトルを男の私がまとめるとなると、
そういう落としどころにするしかない。
結局は男も女も自分勝手で、
相手に多くを求めているのだ。
人類の進化が先に進みすぎて、
もはや「パーフェクトヒューマン」というべきか。
そういうものを目指して成長し続けるしかないのかな。
生まれたときから膨大なアーカイブに、
自由自在にアクセスできる時代、
私の世代はまだそこまでではなかったけれど、
今の子供たちは生まれたときから当たり前のように、
そこかしこに転がっているのだ。
「博士ちゃん」だとかって、
尖がった知識をテレビで大人顔負けにプレゼンする子供たち、
もはや選別は始まっているのだ。
情報をうまく使いこなせない人間は淘汰されていく。
これから先の人類はどこに進むのだろう。