竹内結子さんが亡くなったとのこと、
確定ではないが、
どうやら死因は「自死」が濃厚とのことだ。
昨年再婚をしてお子さんが生まれたばかりだという。
世間一般から見れば「幸せ絶頂」という頃だろうか。
ところが人の心の内はわからないものだ。
もしかしたら本人にすらわからないのかもしれない。
三浦春馬さんの時にも感じたことだけれども、
もしかしたら「役者」という仕事は、
とても危うい仕事なのかもしれない。
いくつもの役割を演じ分けて、
「名優」と言われるほどその役に入り込む。
自らのアイデンティティ、
その在りかがあやふやになってはしまわないのだろうか。
もちろん「コロナ禍」
その影響もあるのかもしれないし、
「産後うつ」との声もあるようだ。
世界を飛び回るなど発散することで、
ギリギリ保っていた「自分」というもの、
発散する機会が奪われてしまったから、
「自分」をつなぎとめることができなくなった。
そういうこともあるかもしれない。
原因が一つということはまず無いだろう。
色々なことが重なってしまい、
それに耐えきれなくなった時に、
人はふと消えてしまいたくなるのかもしれない。
今回は「役者」という仕事にフォーカスする。
経験のないことだから、
全くの想像に過ぎないけれど、
「心の負荷」がとてもかかる仕事なんじゃないかな。
いくつか思い出す作品がある。
綿矢りさ『夢を与える』
子役として人気を博した主人公は求められるままに、
女優として芸能界の階段を上がっていく。
だけれども「誰かの夢であり続けなければならない」そんな重圧や周りの期待、そして自分への期待、
全てを壊したい衝動に身を任せてスキャンダラスな世界へと墜ちていく。
最後は流出した自身のポルノ動画、事務所や親はもみ消しに躍起になるけれど、
それを「間違いなく私です」と本人が会見で認める形で終わる。
彼女は全てを捨てて「自分」であることを選択したのだ。
(随分前に読んだので若干内容が違ったらご容赦)
主人公の友人である俳優の五反田くん、
子供のころから何でも卒なくこなす人気者、
周りから求められる役割を演じて生きてきた。
「役割を演じること」
流されるように飛び込んだ芸能界で、皮肉にも本人が疎むその才能が評価される。
どんどん「役割」を演じて、どんどん自分が何をしているのかわからなくなる。
相手の家庭問題に巻き込まれて、騙されて、奪われて、
地上で最も愛する妻との別れ、
心は通じているはずなのに、手に入らない二人の時間、
名声を手に入れて、「食べ物」も「持ち物」も「女性」も、
思うがままに欲望を満たすけれど、
一番欲しいものだけが手に入らない。
「自分は事務所に操られているロボットだ」
世界に絶望した彼は、
愛車とともに海に飛び込み亡くなる。
「自分」というものを確立するために人は生きている。
自らの「選択」だったり、
「喜び」や「哀しみ」を感じた経験、
積み重なる日々そのものが、
「自分」を形作る欠片たちなのだ。
だけれども「役者」
いくつもの異なる人生を演じ分けて、
時には真逆のような主義主張を自分の中に取り入れて、
その「心の振れ幅」は想像を絶するものだ。
加えて、
売れれば「名声」が付いて回る。
プライベートな時間まで、
「芸能人としての自分」を演じることになる。
「誰の人生を生きているのだろう」
凡人の私ですらそう感じるのだ。
彼ら、彼女らの人生には、
どれだけ多くのものが積み重なっているのだろう。
だから「ふとした時に」
のしかかる重りが臨界点を超えてしまって、
意思とは関係なく消えたくなってしまうのかな。
それは本人にしかわからないし、
もしかしたら本人にもわからないのかもしれない。
「自死」
故人における、
そのことに対する是非は論じようがない。
だけれども、
願わくは「連鎖」が起こらないことだ。
「自分の人生」は「自分の人生」
「人の人生」は「人の人生」
例え、失った人が、
どんなに敬愛する人物であっても、
「人生」は切り分けて考えなければならない。
「自分の人生を生きる」
それって当たり前のようで、
とても難しいこと、
人は生まれながらにして、
「誰かに生かされて育っていく」
だけれども、
どこかで「自分の足で立つ」
そういう決断をしなければならない。
それが「自分になる」ということ、
誰しもが少なからず、
ペルソナを被って、
「役割」を演じながら生きている。
そして、
その「役割」が「命」を天秤にかけて、
せめぎ合う。
「役割」が増えるごとに重みを増して、
「命」の重さを凌駕してしまうのかな。
「演じる」ことが必要なことはあるけれど、
「演じなくてもいい時間」を増やすために、
自然と人に対して誠実に向き合える自分をつくる。
「ありのままの自分」を育ててあげることが、
とても大事なことなのかな。
「演じる」ことばかりがうまくなったところで、
心は「違和感」に気がついているのだ。