一皮むいてしまえば、
人間なんて誰でもそう変わるものではない。
巷で人気のアイドルも、
容姿を飛び道具にしているお笑い芸人も、
みんな役割を演じているのだ。
文字通り皮を剥いでしまえば、
容姿に差はなくなるし、
大事そうに被っている「ペルソナ」を剥ぎ取れば、
排泄だってするし、
自慰だってしているだろう。
「紙一重」
能力の差はあれど、
「生物としての特性」とでもいうべきだろうか。
そこに大きな差はないのだ。
NHKで放送している『B面談義』という番組、
「同性愛」や「障害者」
そういう人とは違った特性の持ち主たちが、
「思うところ」を赤裸々に語る。
毎回見ているわけではないから、
私の見た回がたまたまそうだったのかもしれないけれど、
周りが見ているほど本人たちは大変だと思って生きてはいない。
もちろん苦労はあるけれど、
自らの特性を「楽しみ」に変えて生きているように見えた。
さて、
「イヤイヤ期」を迎えている私の甥、
すべての行動が「非合理的」なのだ。
アイデンティティを形成するための期間、
すべてが「思い通りになった世界」から、
「思い通りにはならない世界」の入り口に立ち、
その扉を開けたり閉めたりして、
中の様子を探っている。
「分解」と「統合」を繰り返して、
その「思い通りにはならない世界」に適応していくのだ。
アイデンティティ形成前の人間が「イヤイヤ期」
即ち、彼の姿だとするならば、
「人間の出所」はみんな同じ、
違いはそこからの発達にある。
何を書きたかったのかよくわからなくなってきたけれど、
これは何か重要な「気づき」な気がする。
重ねて書くけれど、
彼は「身の回りの世話を周りが全てしてくれた世界」から、
「自分でしなければならない世界」への扉に手をかけている。
自分の中に芽生えた、
「アイデンティティ」という不確かなもの、
甘えていたいけれども、
自分でやりたい。
自分が自分であるために、
自分が何者なのかを知るために、
自分と世界との関わり方、
その落とし所を探っている。
「灰色の世界」に放り出される不安と、
「なんで?」って憤り、
全てのことを肯定できないのだ。
「なんで?なんで?なんで?」
そうやって作られたアイデンティティ、
それは生きるための術、
人は生まれて間もなく、
「自らの内面に隠された真理」
それを紐解くための旅を始めているのだ。
そこから「生」を全うするまで、
その旅を続けているのだ。
それこそ「知恵の実」を食べてしまったが故に、
そのことに苦しむことになるのかもしれない。
だけれども「苦しいこと」ばかりではない。
ジン=フリークス
「道中楽しみたい。ただそれだけだ」
その言葉の中に「人生の本質」があるのかもしれないな。
だから「イヤイヤ期」
大変な思いをしている親御さんは多いのかもしれないけれど、
大事な「人生の門出」
大人はその出発を見守ってあげないといけないのかな。